14日から15日にかけて

帰宅後間も無くの午後7時近くと記憶している。
今月のホームページにも「声なき声」を聴くというテーマで取り上げた。
関西在住の親友が突然、集中治療室に搬送されたという、娘さんからの連絡に、私は、未だ新幹線に間に合うというと、既に駅に向かっていた。

この親友には、私が故郷の岡山から、高校2年生として転校した時、折に触れ時に触れ、東京の生活に慣れない私を支えてくれた恩人である。

集中治療室と聞いた時、気掛かりな想いが頭を掠めたからだ。
今日、東京の生活に溶け込めるように基礎的な役割をしてくれた有難い存在だと思っていた私は、感謝の気持ちを伝えたかった。

集中治療室の親友は、穏やかな表情に安堵するも、声を掛けても微動だもせず瞼を閉じたままである。
耳は通じるている筈だと、静かにゆっくりと、話しかけ続けた。
約30年間、医療ボランティアとして培ってきた体験の全てを、親友の為に試みた。

ドクターに私の立場と想いを伝え、話し掛けて一時間過ぎた頃、瞑ったままの目尻から、薄っすらと涙を流した。
聞こえていると確信を持った時、私はこれまで続けてきたボランティアはこの親友にとって必要だったのだと、自分に言い聞かせた。

既に日付けが変わったと知った時、親友が私の方に顔を向けた様に見えた時と同時に、親友の声が聞こえた気がした。

丁度一年前の15日、母校の小学校を訪れる為に61年ぶりに故郷の地に降り立った日であった。
「貴女を育んでくれた母校に、昨年のお礼をして来なさいと、今からだと間に合うでしょ」と聞こえた親友の声を「ありがとう。貴女の言う通り、行って来ます」

これまで、六回程帰郷しているが、「あさくちブルー」だったが、何とバケツをひっくり返した様な土砂降りの母校が迎えてくれた。
一寸先も霞む程の大粒の雨に、私は、昨夕からの目紛しい出来事に、暫く呆然と佇んでいた。

生死と闘っている親友は、私が故郷の母校に対する想いを察し、背中を押してくれた気遣いに私も大粒の涙が頰を伝わっていた。