ある集まりで、1919年生まれの人は今年100歳になるということだ。
思わずその1919年という年に付いて、ある画家を瞬時に思い出した。
「悲しみよ こんにちは」という映画の最初のシーンに、その画家の作品が登場するのである。
その作家とは、神戸出身の洋画家で、版画家でもある「菅井汲」である。
菅井汲について、検索してみると「国際的に最も高く評価されている日本人画家の一人である」と紹介している。
早くに日本を離れ、フランスで創作活動をしているが、ある設計者から菅井汲のレリーフを製作したいので、菅井氏にコンタクトを取って欲しいとの依頼に、私は飛び上るほど驚きと嬉しさで、こんなラッキーな仕事が舞い込んでくるとはと、興奮状態が暫く続いた。
菅井汲氏と付き合いのある先輩であり、友人に相談したところに、東京に帰国中とか帰国の予定があるとの情報を得たのである。
かなり前のことなので、私の記憶もあやふやな箇所もあるが、菅井氏から快く承諾の返事が届いた。
菅井氏によれば、レリーフを大理石を使いたいという希望で、大理石の見本をフランス迄、航空便で送ることになった。
早速、希望の大理石の返事があり、レリーフの下絵も同封されていた。
間も無く帰国した菅井氏他、施主、設計者、私達は新幹線で岐阜羽島の大理石 の工場に出向いたのである。
菅井氏は既に準備されていた大理石に、何と着色を始めたのである。
大理石に、イギリス製のローニーの絵の具で、それは目も覚める様な鮮やかな赤色で、私は菅井氏の思い切った歯切れの良い作業に魅入っていた。
今、何度も故郷の岡山に帰郷する際に、岐阜羽島駅は通過してしまう為に、当時の菅井汲氏との縁を忘れていたが、偶然、1919年の話題から、懐かしい往時を思い出す機会を得たのである。
嘗ては25年美術の仕事をしていた私の歴史的仕事と言えると、今染み染み恵まれた仕事に、既に菅井汲氏は1996年に享年77歳で、亡くなられたので、作品と共に私の中で忘れてはいけないと想った。