今月もふるさとに帰るのを楽しみにしていた矢先、勇気あるメールが届いた。
出来れば、感染王国の東京からの、帰郷は、遠慮して欲しいと、遠慮がちに配慮した内容であった。
ハッと私は、自分中心の想いだけで、例え、如何なる理由があっても、大切なふるさとに、もしかしたら新型コロナウイルスを持ち込むかも知れないという、心遣いが無かった私は、自分の愚かさを恥じた。
勇気ある忠告に、一も二もなく私は、尊敬の念を覚えた。
然し、正直なところ、非常なショックを受けた私は、久し振りに涙を流す程に、胸が締め付けられる程、やり場のない想いに襲われた。
気がつくと、私は、わらべ歌の「通りゃんせ 通りゃんせ」を口ずさんでいた。
「通りゃんせ」の一節に、「ちょっと通してくだしゃんせ ご用のないもの 通しゃんせ」。つまりは、私の想いのみでのふるさとへの帰郷は、慎重にとの心ある警告であって、有り難いと思うものの、心は張り裂けるほど、新型コロナウイルスを憎んだ。
その想いが、わらべ歌を思い出し、自分の気持ちを込めていたのである。
「コロナがふるさとを通りゃんせ」にしたのだと、私は何度も口ずさんでいた。
このわらべ歌には「行きはよいよい 帰りはこわい」とある。
もしも、私がルンルン気分でふるさとに帰った後、大切なふるさとから私の帰郷で、新型コロナウイルスの置き土産にする可能性だってあるわけで、江戸時代から伝わる子どもの遊び歌と言われている「通りゃんせ」には、重要な奥の深い教訓が含まれていると気付いた。
新型コロナウイルスは、人類を最高の不安に陥れる反面、負け惜しみに取れるかも知れないが、新しい気付きを導く知恵も生まれる可能性があると前向きに想いたい。