見えない断捨離

新型コロナウイルスの緊急事態宣言から、土曜日の10日の資源回収に出来る限りの断捨離に励んだ。
といえば聞こえが良いが、前日9日に母校の入学式が、あさくちブルーに満開の桜に迎えられたブログに、喜ばしい筈が私は胸が痛くなり、涙が溢れて来たのです。

今年の3月でピカピカの後期高齢者を機に母校の小学校で、「学び直し」を決めていた私は、入学式に参列するのを、新しい人生のスタートと心密かに決心していた。

然し、最後の生き甲斐でもあり、人生の終活とも想っていただけにそのショックは、私の心も体にも言い尽くせないほどに立ち直るには、唯、唯、ダンボールから取捨選択をしながら、黙々と鋏を動かし続けた。

見える物は、鋏で目の前から無くなるが、見えないものの断捨離があると気が付いた。
それは、政府の対応である来月の6日迄で、収束、終息するとは思っている人は、本当にいるのだろうか。

新型コロナウイルスのはそんなヤワなウイルスではないというのは歴然としているのであるからだ。
何を根拠にと言われると、ネットで既に各自治体による凡ゆるイベントが、次から次へと8月頃までは中止という判断を出している。

何故5月6日という短期限に決めたのだろうかと、どうしても私には、一時凌ぎの様に思えて仕方がないのである。
本当に、信じて良いのだろうか、不安が日を追って強くなる。

初めて、61年振りに母校の小学校での凡そ二年間の思い出が、逆に私にとっては言葉にならない程の苦しみだと気が付いたのである。

恐らく、もう私が母校の小学校に帰れる日はないと思っている。
先月の35日に母校で過ごした2時間半程の楽しい思い出を以って、私は母校の小学校を断捨離しなければならないと、来たるべきものが予想以上に足早に来た現実を悔しいが認め、受け入れる覚悟をしたのである。

誤解しないで欲しいのは、大切なふるさとを想うと、先の見えない新型コロナウイルスが収束、終息する迄は、素晴らしいふるさとの地や学び舎の母校の小学校を、精神的に断捨離するしか、心を治める為に考え考え抜いた結論である。