全てがシャットダウンされた

新型コロナウイルスが、私の心の中を日を追って、自分との闘いを占め始めた。
というのは、私のこれまでの生きてきた人生そのものを全否定される様な重さを感じ、今後どの様に生きていけば良いのだろうかと、これまで「ラジオ深夜便」を、BGMの様な心地良さが一変した。

確かに聴こえているが、頭の中では今後の「新しい生活様式」としての「新たな日常」について、悔しいが、発想が浮かばない苦しさに、睡魔が姿を消してしまった。

もう眠くなるなんて状態には陥らず、走馬燈の様に様々な考えがグルグルと頭の中をかけ巡るだけである。

恐らく認識への個人差はあるだろうが、夫々が私と同じ様に思い惑う人は私だけではないと思うが、立場立場で新型コロナウイルスの重大さを感じた人はいると想う。

全く情け無く恥ずかしいのだが、常に対面と現場で、フェースツーフェースの世を重視してきた私には、「三密」という生活スタイルに、全てを「シャットダウン」以上に「削除からゴミ箱」を意味していた。

折角、社会的には「非生産的な年代」と扱われても仕方がない後期高齢者になっての余りにも、急激過ぎて、持ち前のセッカチな性格も太刀打ち出来ない程の衝撃だった。

医療の現場にも、精神的に区切りを付け、此れからは母校の小学校での「学び直し」を生き甲斐に決めた矢先だったからである。

もう、今後の残された人生さえ、否応もなくもぎ取られた私は、年齢から、この辛さは筆舌に表せない程に重いものであった。

さて、いつ、重い霧が晴れるのだろうか、眠れない夜を何時まで過ごすのだろうか。