治療薬は母校の小学校

今日は昭和の日について、今月の27日の日本経済新聞の「時流 地流」のコラム欄に、地方には「昭和」がいっぱいに、ローカル線の風景や古い列車から見える車窓の風景を記している。

驚く程昭和後期の姿が残っているが、新幹線で岡山から在来線の山陽本線に乗り、矢張り車窓から見える風景の中に、既に半世紀以上も経ているが、記憶に残った今にも倒れそうに、朽ちかけた家が目に入る。

曾て、この家や微かに読み取れる看板に、確かに私も育った昭和時代が蘇ってくる。
特に、ふるさとの駅が近付くにつれ、目を皿の様にして車窓から見える家並みや田んぼや川の流れなど、未だ多くが残っている。

特にどっしりとした瓦屋根の家を見ると、もしかしてあの家は小学校の友達の家ではと、微かな期待を持ってしまう。
駅に着くまで、いくつも未だ昭和を残した家に、小学校時代の思い出が幾つも未だ生きている様に思え、特に、私は今回のステイホームを耐えるのが厳しくなって、心身共にシグナルが点灯し始めた。

二病息災の私には、その原因は分かっているのだが、どうにも出来ない現実だ。
主治医の先生も、薬とふるさとの母校が私の健康上の治療に適しているのは明白だが、新型コロナウイルスには、今、薬を服用する以外、諦めなければならない。

不謹慎な考えだが、ステイホームではなく、ふるさとでのショートステイが出来ればと、敵わぬ想いを馳せている。

「昭和の日」に、ふるさとの「昭和」を思い出す機会の日になった。

幼児期から、病弱だっただけに、我慢する、頑張ることに警戒心の強い私も、今回はこれまでで一番長い我慢の日だと思っている。
一方で、我慢の日々を過ごしている訳だから、私も人生経験として、忍耐力をこの歳で学ぶ毎日である。