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編集者時代を思い出す

いつもの通り朝のルーティンの一つ、今朝の日本経済新聞の日曜日が楽しみにしてい。

「NIKKEI The STYLE」に、「春秋」のコラム欄担当の一人である大島三緒氏が、「歩行者天国といういう『夢」問タイトルで、1970年代の記事に、私にとっても忘れられない思い出がある。

 

銀座の歩行者天国にあたり、当時銀座の中央通りには「チンチン電車」とという「都電浅草線」が走っていた。

 

確か85年の歴史を閉じる1967年12月9日の夜、最終便には大勢の人が集まっていた。

 

実は、私は、その最後の運転者との「チンチン電車よ さようなら」といった対談が、銀座百点の編集部に入って初めての仕事だった。

 

当時活躍の永井龍男先生の司会で、カチカチに緊張した二人の運転手に、永井先生も話題に苦労していた様で、私はもちろん初めての仕事だし、

むしろ、今から考えると私が一番緊張していたかもしれない。

 

時は経て、1970年8月2日に歩行者天国が、今年で50年を迎えたという記事に、私は、もう一つ、亡くなった母親と二人で、晩秋の頃だったと記憶してしていますが、季節柄寒く、隣の二人がふうふう言いながら

美味しそうにカップに入った麺を食べていた。

 

今から思えば、カップラーメンも初めてで、今でもカップラーメンのあの時の味は、強烈に記憶している。

 

因みに、チンチン電車の後の敷石は、銀座の中央通りの道として再利用されたのである。

 

先日、銀座通りには、かつてのちょっと無骨な雰囲気のあった敷石の姿はほとんど、新しい商業ビルの建て替えと共に、既に過去の存在になったと

足元から、なんとなく、私の歴史も変わったとしみじみ想った。