黄実の千両

前日は、これまでの大学入試センターから、初めての大学入学共通テストが、コロナ禍の中を今日まで受験生は頑張っている。

 

同時に、北里大学薬学部でボランティア実習講義の時期でもあり、コロナ禍さえなければ、今年も今日の阪神淡路大震災の前後にあたり、日本でのボランティア元年といわれ、必ず、講義の初めに、学生に17日について

問いかけても、首をかしげる年代層である。

 

ちょうど、大学3年生といえば、この大震災も早や5~6年前のことで

実際に体験のなく、話題としても、残念ながら、17日にメディアが取り上げるレベルになりつつあるために、問いかけても無理はないかと、散歩しながら、コロナ禍前を懐かしく思いだしていた。

 

やはり、講義中いかに学生の眠気を避けるためには、できるだけ事例というか、私の失敗談をすると、うつむきがちの生徒が顔を上げてくる。

 

今、昨年の最後の日曜日27日に、友人から庭の「黄実の千両」をいただいたが、何と未だに部屋で生き生きとしている。

オレンジ色の実もしっかりと付いている。

 

緩和ケア病棟では、病室の患者様のお花の水を取り替えるのも活動の一つであり、既に弱弱しく見た目には枯れかかっている花の付いた枝を捨てようとしたとき、患者様から、「あなたには、もう捨てたほうがいいと思っているかもしれないが、私には、この枯れかかった枝や花を、自分の命と

重ね合わせているから、もう少し、新しいお水を与えて、一日でものばしたいのよね」と。

 

今年、私も28年ぶりに12時間にわたる脳外科の手術後の病室の窓から見える空の表情や星、さらにシャープな三日月がちょうど、まるで私の頭上に来たときは、思わず、月に引き込まれる恐怖を感じた。

 

元気な時は、気にならないことが、病気になると、それぞれ小さなことにも自分の命を重ねてしまうほど、敏感になっている。

 

人によって苦しみや辛さには個人差があるが、その人にとっては非常に重い想いであるということ等々ある現実を受け入れる重要性が必要である。

 

処で、散歩しながら、私は、15日からの二日間、いよいよ、母校との別れが、まだ消化不良のママ、体にもシグナルが出始めた。

一番恐れていた事態になるのではと案じながら、帰宅後、ふと、友人からの例の「黄実の千両」を見ているうちに、不思議に、励まされてくる。

 

なんて、情けないんだろうとそれぞれの立場で背一杯生きているではないか、私も気を取り直して、「頑張らないで、頑張ろう」と思った。

 

突然、スマートフォンから、iCloudストレージの空き容量が、少なくなり、いわば満腹状態にあるとのメッセージが入ったのである。

嗚呼、今夜は、スマートフォンに使われそうだ。