75歳として最後の宿題

昨夜23日の21時過ぎに、母校の校長先生との約束である宿題を四苦八苦しながらも書き終えた。

嗚呼これで、ふるさとや母校に私なりに一区切りをつけたという想いと共に、一抹の寂しさもある。

 

然し、学校からまだコロナ禍における安全のために卒業式も、4月の入学式も限られた人たちで、コロナ前の平常な学校には戻る状態にはいたっていない現実がある。

 

さらに、3年近く卒業生の私を支えてくださった校長先生も、この3月をもって定年を迎え、セカンドステージへと。

 

振り返ると、75歳を迎えた時に予定していたことは、何一つ実現しなかった中で、残された一つだけの宿題を仕上げたたけで、とにかく76歳を迎えることができそうだ。

 

75歳という年は、私に限らず新型コロナウイルスで、これまで通りの

生活をチェンジしなければならなくなった。

 

私はコロナ禍で巣ごもりの生活のために母校での会議にも出席が叶わず、

まして、9月には、脳神経外科の手術をすることで、さらに、私生活が大きく変化した。

 

来月2日で術後半年になるのだが、私はまだ、半年しか経過していないとは思えないほど、パワフルに動いた。

それは、良性の髄膜腫といっても、いつ、また、元気になって脳内で活動すかはわからない存在である。

「寛解」とはそういう意味合いを持っている。

 

まして、残された道は、手術は無理で、ガンマーナイフしか残されていないと、あるいは、緩和ケア病棟で痛みを緩和するかの2つの道しか残されていない現実で、私はできるだけ、身辺整理をしようと思った。

 

不思議に、術後まもなくの方が、現在よりタフだった。

むしろ、今の方が体の切れが悪いというか、ある程度片付いたために、次の目標が思いつかないのかもしれない。

 

お陰様で、昨夜で75歳の最後の目標はクリアできた今日は、何となく

疲れを覚えているが、もう一度、最後のチェックをしようと思っている。

 

来月1日は脳神経外科の昨年末から3か月後を経ての診察日であるが、採血とMRIの検査で、スルーして、安心した76歳を迎えたいと願っているのだが、こればかりはわからないのである。

 

私にわかるような状態であれば、これは大変なことである。