今日2日は父親の誕生日である。
亡き父親は、未熟児で生まれた私を案じ、優しい表情を見せた記憶がなく、本来であれば、神戸で貿易の輸出業をしていたのであるが、神戸も空襲の危険性があると、身ごもの母親と、生家の岡山に疎開したのだ。
その後、父親は、これまでの輸出業の仕事で、当時、バンコック帽子といわれる和紙のを撚糸状態にした材料で作る、紳士帽子をその工場のある津山まで、私を連れて行ってくれた。
また、小学校時代には、麦踏休みがあった大麦の茎で作ったストローを
主に、アメリカに輸出を生業にしていた。
当然「六条麦茶」は、当然、ふるさとによって命名されたと思っていたがネットによると、異なっており、、六条院という名前が悔しく思う。
改めてネットで確認すると、日本発祥の地は寄島町で、現在の浅口市で、
区役所の手前に、シバセ工業さんによると、麦の茎を「わらお」と称し
ストローの丸い形を表すのに、アルファベットの「O」を使ったと造語と父親の仕事を、今日の誕生日で知った次第である。
日頃、苦虫を潰したような父親が、なぜか、職場に連れて行ってくれたのである。
多くの藁から、その藁の整った「0」に合格した大きさをスケールで仕分けしている姿は尊敬に値した。
小学校で人気のない運動場で、従業員から自転車の練習をして、お陰様で自転車を乗れるようになった、ある日、浅口市に隣接する現在も寄島町で、自宅以外に、今風で言うところの出張先の里庄町にも、父親の職場があり、定期的に検査に出かけていた。
なぜか、その里庄町に初めて出かけたとき、「昼飯に行こうか」と。
小さな、10人も入れないほどの食堂であるが、父親は常連らしく、「今日は、娘をつれてきた。いつものを頼む」と。
「いつもの通り」とは、「中華ぞばと狐寿司」のセットである。
記憶をたどると、しょうゆ味で、一枚の名刺サイズの海苔と鳴門巻きと、もう一薄い肉系が入っていた。
然も、入っている麺の色は黄色く、うどんより少し硬く、太さもうどんと
素麵の間といった、初めて見た私は恐る恐る、口に運んだ。
父親は、「初めてじゃろうが、うまいじゃろう」と。
その隣には、油揚げを半分にした三角の油揚げ狐寿司の大きさに驚いた。
初めての経験もあり、量の多さもあり、食べ残している私の分も父親は
平らげてしまった。
懐かしいふるさとの昭和の味である。
しかし、あの時の父親は、私が当然喜ぶとの親心があったと、今は、気が付かなかった父親の愛情を、ありがたく思っている。