36年前の小学校のクラス会

今日の夕刻、日航機の墜落という痛ましい日が、記憶に残っている。

確か墜落した日航機は123便で、私の関西のお得意先の方も搭乗していて

心を痛め、更に、週末もあり、キャンセル待ちで難を逃れた方も二人知っているといった、今でも私にとても忘れが難い悲惨さがある。

 

520名の尊い命に代えがたいが、私にとっても、その後の小さなアメーバー企業ではあるが、少なからず影を落としたのである。

 

この36年前の日航機墜落事件に、ふるさとの小学校は旧暦のお盆休みに、

6年生の先生を囲んで、クラス会の予定で、私も案内状が届いていた。

 

母校の小学校の6年生の先生には、今年定年退職した校長先生と合い通じる温かさがあり、クラスでもその人柄に魅かれてのクラス会を企画したと、

推察される。

 

その頃の私は、現役の真っ盛りで、飛行機の利用は何一つ臆することなく

新幹線より、飛行機の方が遥かに多く、今回のクラス会も日帰りで参加するつもりでいた。

 

処が、数日前から夏風邪で服用していた風邪薬の副作用で、瞼がパンパンに腫れあがった上に、珍しく母親が大反対したのである。

 

体調も考え、母親の憂慮する気持ちで、私は参加できなくなった残念な想いを手紙に託した。

 

やがて、36年から25年の時の流れを経て、母校の小学校に帰ったが、既に

残念ながら、同級生の記憶がなく、36年前に帰郷の機会を逃したことによって、あまりにもその後の61年は長かった。

 

いいえ、36年でも長かったと想う今、私は日航機墜落事故の12日は、とても辛い日でしかないのである。

 

更に、コロナ禍でますます、ふるさとは遠い存在になりつつある。