1923年9月1日に発生した関東大震災を風化させないためにも、8月末から
「防災グッズ」や「避難訓練」の必要性を扱った記事を見かける。
確かに、2年後には発生後200年になり、何となく、静寂の中に不気味さをはらんでいる。
最近では、消防庁からや自治体からの警告を始め、折込チラシ、スーパー等でも、防災グッズのコーナーを設け、コロナ関係のグッズと共に、店頭に並んでいる。
嘗ての関東大震災と、耐震建築の普及により、状況は変わってきているが
一人住まいの場合、一人で身を守るためには、何が必要として求められて
いるのかと、立ち止まっている。
避難情報や避難勧告が出ても、どの程度の必需品を持ち出せばよいのだろうかとか、特に、集合住宅の場合はとか、、次から次へと、疑問が生じてくるのである。
確かに、私も出来得る限りの準備はしておきたいと想うが、他人様に迷惑をかけないために準備をしておくのであって、延命のためという発想とは
異なるのである。
ともすれば、誤解を招きそうだが、投げやりとか放棄するとは違い、自分なりに精いっぱいの努力をした結果、つまり、自助努力続けをしての結果であればという前置きがあってのことである。
生後7か月という未熟児で生まれながらも、これまで、十分、楽しく生き永らえ、生き切ったという想いが脳裏をかすめるのである。
与えられた命を生き切るといえる幸せと共に、ゆえに命の大切さを感謝し
重んじなければいけないのである。
自然の力、猛威にはなす術もなく、弱い存在でもあるとも考えている。
寧ろ、縁者がいない私には、運命というか、寿命と考えている。
恐らく、未曾有というか、想像を絶するという一言で片づけられるものではないと想っている。
よって、自助努力に関しても個人差があり、私自身の身の安全を守るためには最低これだけは必要と思っているものについては、かねがね、努力をしているつもりであるが、各方面から多くの情報に迷いを生じている。
地理的条件と、建造物が木造とか、SRCといわれる鉄骨鉄筋コンクリートや、最近はRCの鉄筋コンクリートの増加傾向にある。
とにかく、自助努力の結論が出ないままで、ストレスにもなりかねない。
気を付けているのは、日頃の医師からの薬には、数日のゆとりを持つように心掛けているが。
自分に見合った防災の準備は必要であり、当然の自助努力と考えている。
命の大切さに、自分の命に責任を持って、生き抜きたいとの想いがある。
色々と、試行錯誤をすることで、自助度量にも防災についても、そこから学び取って、いくつになっても成長する自分を見つめて生きようと。
過去のデータに基づき、開発された防災グッズが、願わくば私の生存中は
必要としない日々を送りたいと願っている。