連日、北京冬季オリンピックの日本選手の活躍に、胸をときめかせ、ハラハラドキドキする競技が続いている。
私は現在、テレビによる視覚から、ラジオによる聴覚により、個人差があるかと思っている。
競技に対して、私は、当初は我慢していたが、どうしても、耳障りにしか
聞こえない女子アナウンサーによる実況、更にニュースでも使用している
表現に、抵抗を感じるのである。
その言葉は、競技が肉薄した時に、表現する「食らいつく」という表現である。
現在は、男女参画基準法とか、男女の性差を超えるという時代に、変わりつつあることを承知で、私は、古い過去の時代と想われても、納得がいかない表現なのである。
検索しても、一切、私が求めている回答は見出すことは不可能であると、
知った。
ビジネスの上でも、男女が平等であるということは、人格的な問題であると自覚しているからだ。
例えば、結婚して、子どもが生まれた時に、私は二人の愛情に成り立った
宝物であるゆえに、子育てのために育休を取ることは、二人の共通資産に
責任を持つことが大切だと想っている。
嘗て、母校で、「子どもはブランド」といった提案をした私は、世間が
考えている商品的なブランドを意味するのではないと。
既に、結婚して、子どもが生まれた時に、どのような子どもに成長してほしいか、家族で、生れた子どもに名付けることが、既に世界に一つしかない「ブランド」だと、保護者を前に話をした経緯がある。
メールやプレゼンでも分かる様に、「言葉はある時は凶器にもなりかねない」のである。
どんなそれこそ、素晴らしいドレスアップしていても、言葉によっては、その品格が見抜かれる恐れがある。
「品格」という言葉も、今の時代には死語になりつつあるのかなあ。