今日は、先月の健康診断の結果をもって、主治医の診察日である。
検査の数値の一つが、届いた日から、今日まで、気になっている。
ところが、主治医の先生から、気になる数値ではなく問題ないとの返事に
緊張の糸が切れて、ほっとした。
午後からは、疲労回復をかねて、点滴でお世話になっている先生からも、何にも心配はなく、元気になって帰りなさいと、励ましの言葉を頂く。
大体、40分の点滴の時間、私は睡魔に襲われて、看護師さんに「済みましたよ、お疲れ様」と起こされる。
今日は、珍しく睡魔に襲われずに、点滴の落ちるのを見つめていた。
ハッと、今日は亡き母親の誕生日だった。
母親は私が、6歳の時、子宮がんで、岡山大学の病院で、手術後、当時は
入院生活が長く、父親と一緒に、何度も訪ねた。
その後、退院した母親は、ちょうど、私が小学校の入学を控え、更に、病弱な私のために、かなりの無理をしていたのではないだろうか。
父親が案じて、お手伝いさんを雇っていましたが、時々、母親が横になって体を休めている風景を記憶している。
今から考えると、私に対する厳しさは、自分の病気を考えての、困らないようにとの「躾」であったと察することが出来る。
その後、私の住まいに、突然の両親の上京には、父親の肺脳腫から体力の
衰えが激しく、輸出業にも支障をきたすようになり、東京での治療を勧められたと、母親から聞き、初めて、私との同居を考えたのである。
お陰様で、父親は健康を取り戻すことが出来たその数年後に、母親が今度は乳がんで手術をしたが、既に手遅れで、一年後には再発、もう手術は
困難との医師からの告知であった。
僅か、3年間に私は父親と母親を看取ることになったのである。
父親の臨終時に、母親は私に、「人が亡くなる」という経緯をしっかりと
私に教育をしたおかげで、闘病中の母親にも、私は気丈に向き合うことが
出来た。
偶然と言えば、偶然で、両親がお世話になった病院は、一昨年私が脳外科の手術をした病院でした。
案じていた検査結果が問題ないという、嬉しい返事こそ、亡き母親からのプレゼントだと想った。
母親の誕生日を忘れる親不孝の私だが先ずは、健康であることが、私からの誕生祝いとしたい。