今日、2・26事件の事件として、無くなった父親は東京本社と、当時神戸支店長だった父親からは克明に、情報交換があったと聞く。
2・26は、前日の雪の降雪がひどい中を、父親は本店に書類を届けたという責任感からで、本店に書類を届けたという苦労話を聞かされた。
上京後の非力な私をと寄ってきたのは、あの父親にとっては、自分を含め
母親のがんへの不安もあっての、考えての考えての行動だったと思う。
何不自由なく育って私を頼るということは、父親にとっては、どんなにか自分の嘗てのプライドや捨ててまでも、私と同居する気持ちが痛いほど分かる。
友人の一人が、今日が誕生日で、お祝いのメールからかえってきた。
「真っ青な空に、今日一日頑張ります」と返信を受け取った。
1936年の積雪した大雪の日とは異なり、天気予報士によれば、今冬最高の、15%と言われるカラカラの乾燥日だそうだ。
然し、友人のメールのように、ふるさとの「あさくちブルー」に引けを取らない「真っ青な空」である。
空は綺麗に比べ、人間社会は何となく「きな臭い世界」になりつつあるようで、コロナ禍も収束しない中で、心がカサカサになりつつある人間社会に私は、水分補給では済まされない不安を感じてしまう。
人は平穏な世界に対して、逆に何かを起こさないと、生きている業とか性のようなものを持ち合わせているのだろうか。
全く、他人様にお世話になる立場の私は、友人から、一人で結論を見出せるのは羨ましいといったが、私にとっては、出来るだけ、他人様にお世話にならずに、自分の人生を締めくくりたいと願っていると、眠れずに、胃が痛くのである。