いつものように、エレベータの「今日は桜の日」だそうだ。
確かに、散歩コースのコースの桜には、既に代表されるソメイヨシノの花の芯が赤く色づいている。
もしかして、2022年のさくらの満開日ではないかと、いつも散歩コースの公演に出かけた。
確かにかに、見事であるが私が案じていたソメイヨシノの盛りを告げる花びらの奥に宿る赤い印からは、散りゆ自然の信号に気づいた。
スマホに残し、私は、日課の散歩を続けるが、どうも、相変らず、精神t的に不安を隠せないことと、「点滴に力」を仰ぐより仕方にまでに、追い込まれた居る心身の状態というか、極限に達していた。
75歳という「喜寿」が私にとっては、ある意味での体力の分水嶺かと思うほど、心身共に、疲れ果てたのである。
長年の友人も案じて、くれるものの、好意は素直に有難く受け入れるものの、既に、限界を達し、医療の力に頼るしかない。
どうも、私はアナログ人間で、全てが、PCでしか相手に情報が伝わらないという、お世話になった友人のこれまでの私を支えた厚意に対して、報いる気持ちでいたが、もう、限界を感じた。
今後の社会生活で落ちこぼれようと、この疲労感について、敢えてそれぞれ自分に相応しい生活様式があってもいいのではないかと、身をもって感じた次第である。
つまりは、IT社会に乗り遅れるとか等々の、自己顕示欲をなくし、素直に自然との共生を摺ればよいのではないだろうか。
先日、小林弘幸氏が紹介していたヴィヴィアン・リーチのからの「新型コロナウイルスからの手紙」に,私は正にその通りと、人類の驕りの生活がもたらした要因はを心に刻んだ。
そして、公園の素晴らしい自然の織り成す「力の素晴らしさに」に、人の愚かさを感じながらながらも、「東京に満開」に、一人ぼっちで祝いたいとの想いにかられ、スパーに足を延ばした。
彼これ、10年近く、私の食材でもあり、冷蔵庫でもあるスーパーで、何と
通い続けて初めて、「岡山産黒鯛」のお刺身を見付けた。
「黒鯛」ではなくふるさとでは「ちぬ」と言われている、地元の人にいうには「鯛」より美味いとの声を聴いているだけに、即座に買い求めた。
数量は数和少なく利用しているスーパーでは出会うのは初めての経験であり友人の故郷自慢のために、お届けした。
今年の「桜の日」と「東京の満開の日」が奇しくも合い合い待った嬉しい「桜の日」の一日になった。