今年は、今日が「敬老の日」である。
今、私が進めているプロジェクトを代弁するかのような日本経済新聞のコラム欄「春秋」に掲載されている。
詩人の鈴木史郎康氏が、「放りだされている『老い』」という」エッセーの中で、さまざまな高齢者に自らの人生を語ってもらった体験を振り返ったものである。
「人間というのは、最後には『ことばを語る』というところに行き着く存在なのか」と感じたという。
長寿社会となった日本であるが、高齢者一人一人に居場所があるかという
疑問を持ち始めていた。
それは自分の人との繋がりをシャットダウンされたという生きにくさが、私の中で、ふつふつと「おかしい」とい疑問を持ち始めたのである。
そして、私は、出来れば、東京を離れたいと思うほどに、生きにくさを感じていたが、60年の生きた証のためにもと、自分に精神的ストッパーをかけるために、自分の生きてきた地域の方に救いを求めたと想っている。
恐らく、私のように、口に出さないで、耐えている方たちに、「居場所」が必要だと想った。
詩人でもあり、映像作家でもあった、鈴木志郎康氏は2020年9月8日に旅立たれたと知る。
「書かれた言葉が読まれないのはつらい/言葉に、求めるに応じる力がないからか/言葉に、求めて行く心がないからか」。
今、私は改めて、コロナ禍後の日本における「言葉の力」の必要性を感じている。
何時か、自分なりに「言葉の力」について、書き著したいと想っている。