ハッと気が付いたのである。
昨日の「デジタル教育書で自ら学ぶ」という表現について「自ら」という表現に、ある種の都合の良い無責任さを感じたのである。
「自ら」とは、自分自身に意欲、気づきによるもので、自分を知り尽くして上での弱い部分を心得て努力する「克己心」に繋がる様に想う。
かなり、自分に対して厳しい性分の私が「自ら」という難しさを感じ、苦痛に近い存在を感じているからである。
メンタル的に余程の強さがなければ、「自ら」という表現に、」「自己人の克服」を意味しているように思を映えたくなる。
「耳辺り」「聴きざわり」の良い言葉での、教育現場に私は不安を案じているのは、果たして、私だけだろうか。