コロナ禍の水際感染の緩和により、私の「ふるさとに帰りたい病」は日を追って顕著に表出して来た。
恐らく、この機会を逃しては永遠に、故郷に帰る機会は閉ざされるという気持ちが強く、私は、もう一度、あの「あさくちブルー」の母校の子どもたちの声を聴きたかった。
それ以上に、私は思い煩うことはなかった。
私の凡そ3年間に及ぶ投資用マンションの組合の理事長としては、すっかり、疲弊してしまっていた。
何とか、私は、この東京の社会の多様性に、追いつけない自分を情けなく思うととともに、果たして、体調を崩してまでも管理組合の理事長としての使使命を続けるかという自分との、闘い続けていた。
全ての投げ出して、私はふるさとに帰る決意を決めた。