中学校と高等学校をミッションスクールで過ごしてきた私は、キリスト教では、2023年の「復活祭」或いは「イースター」が今日9日である。
四旬節という40日間を耐え、今日から喜びの日に変わると、確か学んできた記憶がある。
今日を限りに、明るい未来の景色に変わる日である。
しかし乍ら、私には、3月末から霧の中にいるようで、心身ともに不安定感が漂い、拭えない状態が続き、どうも、長びきそうな予感がする。
心の中で、責任・義務・努力という課題が重くのしかかっている。
何とかして、解決できることは解決したいと願っているのだが。
そこで、解決しなければという責任があるという認識を私は持ち続けており、それには課せられた義務があり、努力をしようと考えている。
そこで、セピア色に変わった愛用の辞書で、責任・義務・努力についての
知識を取り込むことから始めた。
「責任」とは「引き受けてなすべき任務(義務)」、次に「義務」は「当然なすべきこと(法律道義)、権利、「努力」は「物事に精力を注ぐこと
努めること、ほねおり」とある。
どうやら、察するところ、三者が一体となって為すべき関係にあるのではないかと、頭の中でたどり着いた。
そういえば、先日7日の日本経済新聞のコラム欄「春秋」に、太宰治の随筆によれば「義務は、私に努力を命じる。休止の無い、もっとの努力を命ずる」とある。
さらに記事によれば、「私は、いま、義務の為に生きてゐる。義務が私のいのちを支へてくれてゐる」
確かに、3月現在で積み残したままの状態で、一瞬の間に、準備不行き届きの中で、他者に引き渡すことになった現状に、これまで月駆ってきた使命感のもとに努力してきたことが、消え去ってしまった。
私は、このことについて、どうしても、自分の中では整理がつかずいる。
責任・義務・努力はドイツ価値も持って進めていくものではないか。