2月中旬、出版社より私宛の手紙が届いているとの連絡が入った。
受け取った後の対応は私に任せるとのことであった。
受け取った私は、25年前、私の片腕として良き協力者であった女性からであった。
凡そ10枚近くにわたり、私の職場を離れてからの経緯が、克明に書き綴られていた。
息をのむような、信じられない壮絶な私の知らない25年の人世を過ごした現実に、私は思わず「信じられない」という気持ちに襲われた。
25年前の彼女しか記憶にない私は、今日、その彼女と、食事をすることにした。
彼女の言葉を借りれば、「兄弟無し、子ども無し、家族は95歳の認知症の母、しかも本人はがん患者」と、さらりと言い放つ。
2月の手紙から、手術をしていた彼女と、メールでのやりとりはしていたが、実際に会うのは25年ぶりである。
何度も、苦難を切り抜けた彼女はもの驚きすることなく、堂々としている姿に、人はこんなにも強靭な力を秘めているのかと、驚いた。
これまで、私は自分の故郷について彼女に話したことがなかった。
送られてきた手紙を何度も読み返し、彼女の話に丁寧に耳を傾けようと言い聞かせるともに、故郷の美味しいランチをと考えた。
故郷のアンテナショップで、ランチに箸を運ぶ様子もしっかりして、最後に、美味しかったという彼女に、私はほっと、胸を撫で下ろした。
凡そ、4時間近い時間を過ごしたが、一切、弱気さは微塵もなく、寧ろ、自分の病気に対しても、最後まで前向きに向き合う姿勢に、私のできることは、そっと、静かに見守ることと想っている。
「時の流れ」の重さというか、秘められた恐るべき「時の力」を感じた。