昔、お寿司屋さんで、幾つもの魚の名前が漢字で入った大ぶりの湯飲み思い出した。
というのは、「鱧」という字に出会い、さてさて、なんと読むのだろうと
思うにつけ、手元に漢和辞典がない。
この季節であれば、恐らくと賭けに近い当てずっぽうで、「はも」と。
ピンポーン!正解でしたが、何か奥歯にものが挟まったようですっきりしない。
もやもや感は、先月の日本経済新聞夕刊の酒井順子氏の「ギョーザ」ぎらいと題したエッセイが思い当たる。
かねてより、私は今回の魚にしろ、花にしろ、多くの表記がカタカナ表記がまかり通ることに沸々と不満を持ち続けている。
酒井順子氏は「餃子」には目がないが、「ギョーザ」となれば一気に失せる気がするという。
まさに私も「ハモ」あるいは百歩譲って「はも」にしても、「鱧」には程遠くしか感じられない。
特に春を告げる瀬戸内産の「鰆」は、漢字表記によって、感情豊かな広がりがある。
ところが、酒井順子氏が、「新聞には、『外来語はカタカナで表記する」
というルールがある」と記載してある。
さらに「漢字は、文字そのものが意味を持つ表意文字である」と続く。
私は、折角学んできた多くの漢字を大切に、私なりの納得のいくスタイルを今後も貫きたい。