長い自分との葛藤を終えて

2016年11月末から、私は自分を取り戻すために、ただひたすら黙々と続けたことがあります。

約四半世紀続いているボランティア活動が、現在の私の全てというか、もうこれ以上自分を見出せるものがなくなるのではという何とも言えない虚無感に襲われてしまいました。

 
まるで足搔くと言うか焦れば焦る程、泥沼に足を踏み入れてしまう恐怖感に、何とかしなければと思い続ける日々が続きました。
 
病気の方や、心に重荷や苦痛を持っている方に、私は話し相手といいますか、その方達の気持ちを私なりに僅かでも理解する様にと努めて参りました。
 
そうであれば、自分の事は自分で理解できるのではないかと思い直すエネルギーが残っていました。
よく言われていますが、「ケアをケアする」「自分を自分でケアする」ということです。
 
これまでの70年近い人生において、不思議ですが後向きに考える事ではなく、前向きに考えると言う生来の思考回路の方が強く頭をよぎるという性格が救いになっていました。
 
昨年8月には医療機関の検査数値に自信を持っていた筈の数値に変化が表出してしまったのです。
既に長年お世話になっています主治医は、今回の検査結果以前から案じていましたことが、今現実となって身体が正直に反応していたことに、私は白旗を揚げ、先ずは数値結果の原因と向き合う事でした。
 
悲壮感はなく、素直に受け入れ、数値改善に努める事が楽しみになっていたのです。
絶対に数値は改善されると信じて続けましたところ、何と僅か1ヶ月で、数値の改善が見られたのです。
そうなると、ますます励む事が更なる楽しみに 変わっていく自分がいました。
 
次に解決する事は、第三者的に私こと「淺野マリ子」を一度解体というか、分析してみる事を思い付いたのです。
 
元々、幼少期からの虚弱体質もあり、共同生活の経験が少なく、協調性に欠けてしまっているところがあります。
 
これまでに私は、当時としても編集時代から、小さいながらも経営者として、組織的な体験が少なく、常に自分で判断して動けば良かったという開放感が長い為に、ある意味でゴーイングマイウェイの世界で過ごして来ました。
 
自分が苦手な事や嫌な事と、好きな事を考えて見ましたところ、明確に解ってきました。
毎朝、必ず30分以上の時間をかけて新聞を読む事が長い習慣となっています。紙面から多くの私を活気付ける時間でした。
我を忘れる程に、のめり込み読んでいます時が正に「至福」の時間です。
掲載記事から私なりにその記事について頭には文字化されてきます。
その一瞬が何とも言えなく、自分を取り戻しています。
時間が許す限り、頭に浮かんだ事を文字化する時が、これまた第2の「至福」の時でした。
 
いつのまにiPadのメモには、次々と自分の想いを綴り続けていました。
そのメモの多くは、折々のことについて自分が思い付いたことを書き連ねていました。
いつのまにか、書き続けている時は、我を忘れて、楽しいという想いが占めています。
無心に新聞で得た知識を私が咀嚼して、文字化する事が最高に楽しいという事でした。
新聞を読む事から始まり、思いついた事を文字化する事こそ苦しみ、葛藤を終わらせる事に不可欠な要因だとわかりました。
 
数年前から、私の頭の一部を占めている言葉がありました。矢張りこれしか残らなかったのです。
それは、「星の王子さま」で知られるフランスの作家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリが「書くことは考えることである」との言葉を残していますが、その言葉に辿り着きました。
 
私は「考えることが書くこと」を意味し、結論でした。
 
野心や自己顕示欲を満たすためでは無く、唯ひたすら考え書くことで自分の世界を欲していたのです。
それは暗く長いトンネルから抜け出す事を意味していました。
 
この葛藤は決して無駄では無いと思える自分がいました。