馬鈴薯の芽

新馬鈴薯の季節を迎え、店頭からは昨年収穫された馬鈴薯は姿を消しつつある。
昨年収穫された馬鈴薯ならば、私が72歳当時は新馬鈴薯だったのではないだろうか。
世代の交代と同様に、存在感は薄れる筈だが、古く硬い皮の馬鈴薯の芽が、私には愛着を覚える。

農林水産省にも馬鈴薯の天然毒素と言われるソラニンやチャコニンに関する情報が掲載されている。
緑色の馬鈴薯の皮も注意事項とされているが、私が小学校、中学校時代を過ごした土地では、馬鈴薯の皮は記憶によれば緑色をしていた。
当時、母親から緑色のの馬鈴薯の皮は危険だからと、かなり分厚く剥いていたことを鮮明に憶えている。

台所には買い置いた数個の馬鈴薯からは、勢いよく余力を思わせる芽が出ている。
まるで何かを意図したかのような誇示すら感じる芽が出ている。

危険視されている芽にも、未だ命を守る為の証しであり、危険故に存在価値を増すとも言える。
本来であれば多くの芽を出している現実の危険性に気付く、伝える為ではないだろうか。
そのような危険要素の存在があってこそ、人は成長するのだと。

今、私は残った馬鈴薯の芽を取り除きながら、それはそれで良しと楽しんでいる。