信頼の重さ 責任の重さ

今、亡き父親の言葉に、改めてその意図の重さを感じる。
社会人として新しい未知の世界にスタートする前夜だったと思う。

今後、職場では「なくてはならない必要な人になって欲しい」と。
更に「人から信頼される存在になることと、どんな些細な事にも責任を持つ人になって欲しい」と、私に「この三つをよく覚えておく様に」と言っただけで、終わった。

父親は、確かに私の記憶にも、まさにその通りに生き抜いて来た父親の自らの体験から発した言葉と理解出来る。

恐らく現在でも「信頼と責任」は変わりなく存在していると思っている。
最初のフレーズの「なくてはならない必要な人」について、現在では特殊な技術を持っている人以外は、必要な人材となり得るか微妙な時代になっている。

後者の「信頼と責任」について、私は今、改めてこの言葉と向き合う場面に出会ったのである。

相手から、私が予想していた以上に信頼されていると知る状況が起こったのだ。
内心、理解してくれる人がすぐ短に存在していた事実に、私は内心、とても嬉しく、此れまでの私なりの一途な気持ちを黙って見続けていた人がいた。
相手の気持ちに報いる為には、信頼を裏切らない責任の重さを感じたのである。

新年早々の薬学部の「ボランティア実習講義」でも、ボランティアは自らが望んで活動をする以上は、「責任を持つ」立場にあると毎回伝えているが、責任を持つ行為こそ、信頼される第一歩ではないだろうか。

順序よく整理していくと、父親の最初の「なくてはならない必要な人になる」という着地点に辿り付くのではと思える。
何れにせよ、良き理解者を得るに至った以上は、私も責任を持って対処しなければならないと、今、心新たにしているところである。