刻々とコロナの情報が、絶え間なく発信されている。
悲しい過去の経験から、情報を止めどなく追求している自分に、何処まで耐えられるかか、不安が募る。
然し、病弱な私はどうしても敏感に成らざるを得ないのである。
これ迄は固定電話を留守電にセットしていたが、特に一人住まいや、些か医療に関わって来た私への生の声を求めている人の如何に多いかを、私は自分の平常心を保つだけで精一杯だが、矢張り、不安に思っている人を見過ごす訳には行かない。
不安な時、人は声なき声のメールを求めないのである。
矢張りオーソドックな生の声から、私も相手の気持ちを汲み取れる利点がある。
本来、人は持って生まれた自然の姿に帰る時を、コロナを通して、ある意味で、現代社会のシステムに取り残された人に対しての警鐘かとすら思っている。
然し、私に今回のコロナ等の辛さを訴えて来る人に、ケアする限界を感じているが、もし、私の一言でリセット出来るのであればと、自分も同じ想いを共有している。
曽て緩和ケア病棟の40代という若さで、入院した方が、「私が、思いも思わないガンで、間も無く家族との別れが迫っているが、全てに訳があるんだよね」と言った言葉に、私は絶句したのを思い出した。
恐らく、想像以上の長期にわたるこの見えない新型コロナウイルスについても、何らかの人類に対する警鐘として、引き受けるしか無いのでは無いだろうか。
私はまず、自分に厳しく感染者にならない様に気を付けるしか無いのである。
それは、あらゆる意味で、今の時代に対して、奢りにも近い時代への謙虚さに気付く様にとの警鐘に想えて仕方ないのである。