失う

都道府県をまたぐ規制緩和を始め、前面的に解禁され、日本に明るさに溢れた日がスタートされた日の午前中、私は、パソコン上のミスで、大切な資料を失ってしまった。

失った資料が如何に大切かといえば、E・A・グロマン編・松岡敬一訳に『愛する人を亡くした時』に等しい程の資料だった。
「愛児を失うと、親は人生の希望を奪われる」「配偶者が亡くなると、ともに生きていくべき親を失う」「親が亡くなると、人は過去を失う」「友人が亡くなると、人は自分の一部を失う」

簡単に回復出来るものではなく、プロの力に助けを求める以外にないと思った私は、ことの重大さに、やっと回復した体調でも、食事が一切喉を通らなくなり、ひたすら私は探す以外に頭の中を駆け巡っていた。

前日までの青空が、終日雨の中を、助けを求めて、久し振りに歩数計を見ると、2万歩を超えていた。

日頃の怠慢もあっての、今回の資料を失った理由が誰のせいでも無く、私の怠慢から来るもので、毎日、愚直な程、コツコツと処理していればこんな苦痛を味なわないで済んだのである。

失った資料は、私にとって、愛児であり、配偶者であり、親であり、友人の存在を失ったという喪失感に、最近では一番辛い想いとなった。

病院ボランティアで「お話相手」として、病気の方の話を聴いて来たが、病院ボランティアを辞して、初めて「失う・喪う」言葉の重さと気持ちを皮肉にも実感した。

今、パソコンはプロの力を信じて、「待つ」より仕方がないのである。
改めて「待つ」言葉にも、私は実感している。

恐らく、今回の「失う」という大失敗にも、今後の私に何らかの意図があるのだろうと前向きに考えようと、自分を支えている。