今朝のガラス戸を流れ落ちる結露に、そろそろ、来年の手帳に予定を記入する季節を感じた。
昨日までの重苦しい気持ちを振り切るためにも、微かに、新しい紙特有の匂いのする手帳を取り出した。
2022年は、「笑顔」に繋がる予定が少しでも多く埋まるといいなあと、願いながら。
今年はまだ、一か月強を残しているが、何となく心の隅に、来年に期待している気持ちの表れが正直に出ていると、感じながら。
先日「空白恐怖症」について、メディアが取り上げていた。
思わず、まだ、「空白恐怖症」という言葉は生きているというか、使われているとは、驚いた。
既に「死語」になったとばかり思いこんでいた私は、懐かしさを覚えた。
友人の一人で、私の何倍も活躍している彼女の手帳は、予定がびっしりで
自分でも分からなくなるほどの書き込みに、生き生きとしていた。
定年を迎えた彼女は、その実力を買われ、関連企業で、新しいスタートを
切ったのである。
暫くして、その彼女から、ちょっと、会って話をしたいとの連絡が入り、
まだ、肉声が優先の時代で、電話口の声に変化を感じた私は、不安を覚えながら、約束のホテルのロビーに向かった。
表情からも、嘗ての彼女とは違っていた。
やがて、彼女は私に、手帳を取りだして、「ちょっと、見て、見て。今の私の手帳は、空白ばかりで、落ち着かなくて、とても不安になるの」
正に、彼女は「空白恐怖症」に陥ってしまったのである。
実は、私も76歳という年齢とコロナ禍もあり、「毎日が日曜日」になった
ために、手帳が嘗てのように予定の書き込みが少なく成った。
新しい手帳には、診察日の予定の書き込みが一番多く、「空白」が目立つ現実を感じた。
またまた、「年寄りの冷や水」と言われそうだが、手帳の空白を如何に、
空白にしないように、努力する楽しみを見つけるという考え方もありでは
ないだろうか。
そう、ありたいと想っている。