昨日は母の命日である。
考えてみると、子宮がんに始まり、乳がんを2度発症するも、2度目は手術不可能との結果に、「PCU」はまだ、少数派によると遠い存在であった。
しかし、主治医は時間を超えて、母の異常に対応してくれた。
苦しむ母に同行する私は、どのようにか母の不安を考えて有難いと思う。
後に、緩和ケア病棟といわれる「緩和病棟」が、わが地域病院にに誕生したのである。
日本の政治の拘りの如く「ホスピス」では、なく「緩和病棟」としての許可を経験者の看護部長に依って、成就したのである。
私は出版社からその情報を入手し、看護部長に面会を申し入れた。
それは、私に対する遺言というか、ミッションだと伝えたかったのだと、
想っている。
そして看護部長の、ボランティア担当の看護師の面接をクリアーされ、私は亡き母のわが身を賭して尽くした母の遺言と想っている。
其の後の私は、戸惑いながら母の私に対する教育を示したと思っている。
さらに2022年の幻冬舎の「読むカフェ」に投稿した「白いシャツカラー・
ブラウス」にも、将来の私の指針を示したと、改めて、亡き母の偉大さを感じる人、一日遅れの命日に想いを馳せた。