2019年

4月

30日

平成時代を閉じる

現在74歳を迎えた私は、昭和と平成時代を生き、明日は新しい元号を迎える最後の夜である。
どちらかといえば、昭和の時代の方が過ごした時間は長い。

改めて、私の平成の人生はと思うと、この期間は私が最も苦手とする「自分を抑える」「我慢する」に代表される。
未熟児で生まれた私は、経験上、「我慢する」と身体にシグナルが出ることを避けて来た。

ところが、批判を承知して敢えて言えば、平成は私にとって「我慢」に代表される時代だった。

その重苦しい自分との闘いから開放されたのは、母校の小学校からのメールであった。

当時の小学校の4年生の先生が、私が気付かなかった「生き甲斐」を見出してくれた。
担任の先生は、当時の通信簿に「文章力が抜擢」という評価をしてくれたのである。

私にとって、初めて自信が持てる唯一の救いであった。

時の流れで故郷の風景は大きく様変わりしていたが、懐かしい61年ぶりに母校の小学校に帰郷した。

数年前から、身体的に変化を来たし、主治医からも注意の回数が増えていた。

「我慢する」事に限界を感じていただけに、私には今から想うと、帰郷が後にターニングポイントを真剣に考える機会に繋がっていた。
平成の時代が終わる事は、私にとっては大きな弾みにもなり、次への新しいスタートに後悔は無かった。

私にとっては、ある大きな意味を持った時代が閉じた。

2019年

4月

26日

ある終焉を迎えた

平成の時代がカウントダウンに入った。
別に順応した訳では無いが、約1ヶ月程前から、私の周囲の変化を何となく感じていた。

私のターニングポイントを察したかの様に、今年は今迄の年間の予定がすっかり姿を消していることに気が付いた。
不思議に疑問すら持たなく、ホッとした自分がいた。
数年近く重苦しさを感じていた問題にも、信頼出来る後継者が産声を元気に誕生した。

これで頭の中に占めていた問題も解決したことが、こんなにも私は主治医から何度も注意を受ける程迄の見えない重圧に驚くた。
同時に、何年ぶりだろうか、私がしたい目標に今後は専心出来ると、思わず笑みを隠せない。

以前も取り上げた事がある話題だが、物事に一区切りすると、自動的に整理、解消、解決してくれる。
今回も、前日アイパットの中に収めてあったPDFの資料が完全に消失している。
誤操作で、解除した記憶は無い。
これまでの時間に費やした資料等は、今後の私には必要性が無いと言うことを意味している。

昭和から平成迄の私の歴史が終焉を迎えた日だと言える。
新元号までに、人生の舵取りに前進した証と今、私は受け止めている。

欲張る気はサラサラ無いが、次の目標がある程度形あるものに仕上がるまでは、何とか命が続くことを望んでいる。

背筋を伸ばして、残された目標に全力を尽くしていきたいと想っている。

2019年

4月

17日

この日を迎える為に必要だった

昨年の冬、話には聞いていたが、まさか私が「コミュニティークラッシャー」と言われる「自我承認欲求」の洗礼を受けるとは想像だにしていなかった。

聞くところによれば、、健康を害した人もいると聞くが、何しろ初めての経験だけに対応の仕様がない。

相手は自分が気付かないだけに、対応次第ではエスカレートの危険性があるとドクターから注意を受け、対処方法のレクチャーも受けた。

然し、この洗礼が皮肉にも私の「ターニングポイント」を加速する結果になった。
今となっては、私は感謝する気持ちに変化する程の平常心にある。

年齢的にには、何が起こっても仕方ない歳を迎えているが、いつまでも人は良きにつけ悪しきにつけ、経験を通して成長する。

時代も平成から「令和」に新しくなるのも、残すところ2週間弱の今日、私は何となく生きにくさを感じ始めている時間が多くなってきている自分と闘って来た。

何方からとも無く、立場は異なるが偶然にも同じ考え方による結論で合致した。

やっと私の冬が終わり、立春から始まった春もの24節気の「穀雨」で終わり、種まきに向けて本格的に季節は進んでいる。

心身共に、本来の自分を取り戻し、恐らく私にとっては最後になるであろう「生き甲斐」に取り組める時が来た。

2019年

4月

15日

ターニングポイントに成功の兆し

前日の夜、駅に降りた時は重い雲からポツリポツリと、雨が降っていた。
然し、今日の雨は気になるどころか、私には大切なターニングポイントの一つのスタートだ。

美術の商いをしている時から、相手に信用され、理解され、納得迄には、かなりの準備を要することと、私自身が先ず相手を信頼することであることから、初めて結果が出ると思う。

自分としては精一杯努力しても、叶わない事もある。
一瞬、悔しさというか、相手に対しても感情的にしかならない。

昨夜は、私の想いを理解して、快く引き受けてくれた。
寧ろ、私の目的に協力と応援をしてくれるという。
案じていたが、逆に勇気付けられた私は、責任の重さを感じると共に楽しみでもある。

翌日は雲一つない青空に恵まれ、もう一つ目的を抱えて臨んだ。
約1時間は、昨日以上に相手にどの程度理解してもらえるか、久し振りに内心はぴーんと張り詰めている自分がいる。

然し、私はこの緊張感に堪らなく「生き甲斐」を感じる時間である。
最近の私からは、いつしか諦め、遠い存在となっていた時間だった。

1時間で、私の目的とする想いが、相手に伝わったのである。
最初の提案が残念な結果に終わっただけに、その悔しさから 発想の転換をしたことが功を奏した。

失敗の悔しさをエネルギーに変える力が、次へのステップに繋がったのである。

健康には余り自信が無いが、私はこの様に「鼻っ柱」が強い生き方を今後残された人生を歩もうと決めた日になった。

何とか、ターニングポイントが進み始めたと自覚出来た2日間だった。
相変わらず、見上げた空には雲一つなく、澄み切っていた。



2019年

4月

09日

故郷の親友との約束

4月1日の新元号に続き、4月9日に今度は2024年度上半期には、20年ぶりに新紙幣に一新するという日経新聞夕刊の記事の報道で、私は、背中を押されている様な、不思議な感覚に襲われた。

最近、平成の時代を惜しむかの様に亡くなる方がとても多く感じているのは、私だけだろうか。

2024年といえば、私は79歳で新紙幣にお目にかかる事になる。
一瞬、5年先とは長いなぁと思った。

昨年2度ばかり故郷で講演や講師依頼で、帰郷する機会に恵まれた。

この機会に小学校こそ違うが、17歳迄一緒だった親友に逢える事が楽しみだった。

彼女と私は、年賀状を取り交わす事もなく、実に淡白な親友関係である。

彼女は家庭もある身で、兄上の創設なさった身障者等の社会福祉法人の施設の跡を継ぎ、意欲的に活躍している。
帰郷時に彼女の多角的に活動している現場を見て、親友に尊敬と共に誇りに思った。

彼此、50年近く会う機会が無かったが、故郷の味と共に、いつしか、時は過ぎても心許しあえる親友になっていた。

彼女は、75歳迄生き切って、後継者を育てるのが目下の目標だという。
内心、私も立場は違うが、全く同じことを考えていた2人は、兎に角75歳迄頑張っていこうと約束した。

人生のサイクルを25年というパターンを理想としているので、75歳で3クールになる。

私は、ある目標の期限が75歳迄に形にする事が、私の場合には後継者という想いを持っている。

未だ、この想いは彼女には打ち明けていないが、きっと理解してくれると信じている。

2019年

4月

05日

ターニングポイントの足音を感じる

先月末までの心身共の苦痛は、一歩前進する為に必要な期間だったと思える気配を感じている。

新しくスタートするまでには、心身共に気付かない内に相当な闘いをしていることを実感した。
年齢的な起因が大きく影響することもあるのは分かってはいるが。
特に、新元号「令和」の発表は、私に一つの決意というか、弾みをつける機会にもなった。

昭和の終戦の年に生まれた私だが、親しんだ平成30年が残すところカウントダウンに入った。
この74年間のうち、私は仕事の傍らで、病院ボランティアを始めて30年を過ぎた。

30年もボランティアを続ける事が出来たのも、仕事とゴルフが気分転換になっていた。
ところが、父親の交通事故を機に、不自由になった父親に付き添っている時間が多くなった。
母親の入院先で、病院ボランティアを勧められ、始めたボランティアだったが、お陰で父親の気持ちを汲み取る事が出来た。
交通事故後、胆嚢がんを発症し、2年2ヶ月の入院生活後、旅立った。

既に、唯一の気分転換だった大好きなゴルフ場も手放した。
父親の死を機会に、病院ボランティアに、ある意味では21年間、ボランティアに没頭したと言っても過言ではない日々が続いている。

ある意味で、前期高齢者と後期高齢者という表現には問題点も否めないが、私の場合、正直に身体に現れたと言える。

世の中のスピードの速さに追い付かない自分に気がつき始めている自分もいる。

主治医からは、自分の時間を作って、好きな事をするのが、何よりの治療と言われている。
今、私はその時間作りと好きな事、したい事があるので、今私はその目標に向かう途上である。

幸せな事に、私の目標を見守り、応援してくれる人達の存在が私の大きな支えになっている。