2019年

7月

29日

故郷が私を包み込んでくれる

今、故郷に向かう新幹線の車中で、ブログを書いている。

7月中には、自分の今後の軸をしっかり決めたい、決める積もりでいた。
まさしく、我が故郷も梅雨明け宣言が出された。何という不思議な巡り合わせと思った。

故郷の駅に近付くにつれて、深まる取り留めのない高揚感には自分でも驚いている。
既に実家はないが、我が母校の小学校では、「お帰りなさい」「ただ今」が当たり前になった。

肉親に縁の少ない家系である私は、現在は社会的には、所謂「独居老女」である。
そのせいか、日常的に当たり前の挨拶に心が熱くなる。
もしかしたら、世間でいう「里帰り」を、私は求めているのかもしれないという想いも過ぎる。

私の持っている些細な経験値が役に立てることぐらい、幸せな事は無いと自分に言い聞かせている。
故郷に一歩距離を置いて、観ると地元の人は至極当たり前の日常から、私は気付くのである。

先日、カナダの友人から「故郷が心の糧になっているから、移住するのでは?」とメールが届いた。
然し、私は適当な距離感を保つ故に、故郷への新鮮な視界が開けて来ると考えている。

年齢的にも都会のスピードのある生活が、逆に故郷の温かさを感じるのである。
このライフスタイルが、主治医からも「ベスト」というお墨付きも頂いているのも心弾む。

これからは、父親の「恩送り」を生き甲斐を持って生きていこうと、帰京の車中で決まった。

2019年

7月

23日

自分の想いは変わらない

今、思い掛けなくターニングポイントのスピードが加速している。
数年間、想い続けていただけに、想像以上に楽しく、これまでの生きてきた人生の経験を全て投入しなければという、使命感も感じてはいるが、改めて自分を見つめると、新鮮さにも気付くのである。

ものは考え様で、使命感があるからこそ、疲れ始めた能力にエネルギーをチャージして頑張れるのではないだろうかと思っている。
寧ろ、頑張らなければならない機会に出会うことは、感謝感激すべきと考えている。

既に母親からの宿題は、終わり、今度は父親の為にアメリカでは恩返しでなく、「恩送り」というそうだが、この表現を最近知り、私は父親にはこの言葉が相応しく感じる。

ターニングポイントにも、先ず優先順位があり、友人から「貴方にしては、珍しく決断に時間が掛かっているわね」と言われるが、これまでに余りにも風呂敷を広げ過ぎた感もする。

想いは動じていないのだが、相手もある事だけにタイミングも考えて、確かにスロープテンポである。
今月の遅い梅雨明けに託ける訳ではないが、内心は一刻でも早くストレスにならない内に解決したいと考えている日が続いている。

よくよく考えてみると、初めて社会人になった時代に戻り、一番好きな分野の端くれとも思えるが、今の私は、少しのキャリアも蓄えての生き甲斐への道が、既に目の前に開けている。
昔、歩いた道を歩く楽しみが、今の私には代え難い心の栄養剤である。


2019年

7月

15日

墓前に誓う

朝からどんよりとした重苦しい雲が空を覆っている。
しかし、今年のお墓詣りは、久し振りに両親に色々と積もる話というか、語り掛けたかった。
そう思って、いざお墓に向かうと、「全て分かってるよ」と言った声が聞こえてくる様だ。
また、新しい生き甲斐に出会い、その想いを理解してくれるのは、両親だと思うから。

曾て、父親から自分は長男の身でありながら、弟に一切合切任せて、都会に飛び出したと聞いた。
その時、私の祖父にあたる父親は、出発の朝、何処かに早朝から出掛け、見送られないままで、都会の生活が精一杯で、帰郷する事も避けたという。

然し、いざ、戦禍が近くまで及んだ時、頼ったのは、実家だった。
そんな自分勝手な私達を、喜んで受け入れてくれたが、何一つ、弟夫婦に、また故郷に恩返しが出来なかったと、染み染みと話してくれた父親を思い出していた。

然し、母親から聞く父は疎開先で懸命に、これまでの故郷への償いの様に働いていた姿を私も子ども心に鮮明に残っている。

墓前の前で、もう70年近い昔の両親の姿が突然、私の頭を過ぎった。
今、私は、30年近い活動から、また、新しい生き甲斐へと進もうとしている。
この報告というか、誓いを話したかった。

気が付くと、空には雲が消え、いつしか晴れ間に変わっていた。
つまり、両親も私の想いを受け止めてくれたと、思えるお墓詣りになる。


2019年

7月

08日

朝刊の記事に思わず頷く

一夜明けた8日の日本経済新聞の朝刊の記事に、私は思わず頷いていた。
何か、自分の文章の表現力にもどかしさを感じつつ、書き殴っていた想いを見事に著した記事である。

掲載されて記事を紹介させて頂くと、「18歳プラス」の紙面の一角に、学生を対象にした「U22 by NIKKEI STYLE 」に、ディー・エヌ・エー(D eNA)創業者で会長の南場智子さんの意外な後悔を「私は自分の人生を生き始めるのがすごく遅れた人間」と話している。
更に、「長い間、自分の尺度で生きてこなかった」と。
「ようやく自分の人生を自分で決めたと思った瞬間は、コンサルタントを辞めて1999年にD eNAを起業したときのことでした」と続く。

「自分が夢中になれるものは何か、自分の心に聞いてみてください」
「20 歳くらいになったら、意識的に自分の夢中になるものを自分で見つけてほしい」と。
「自分の尺度で生きるの遅れた」と結んでいる。

「自分の尺度で生きてこそ」とのタイトルに、私も心当たりがあるというか、私の場合は、多くの周囲の人からの助言で、人生百年なんて言われているが、各人が自分に相応しい生き方がある様に思う。

周囲の人から、最近私に「自分を大切にして、自分のしたい事をしなさい」と言われる。
確かに、「自分が夢中になれる、自分の尺度で生きる」という私本来の姿がいつしか消えつつあったことは、自分でも気付き、踠き、焦りさえ感じる迄の瀬戸際に立っている状態だった。

嘗ての私を知っている友人達も、自分の想いを取り戻す決意に賛成してくれるだろうと思っている。
遅ればせながら「自分の尺度で生きていける、夢中になれる生き甲斐」を見いだした。

2019年

7月

07日

想いを決意する日が来た

東京は朝からシトシトと雨が降り、遂に天の川の一年に一度の出逢いは叶わなかった。

ベランダから、重苦しい雨空を見上げながら、ある意味で7月7日は私にとって長い長いスタートの日であり、この日を逃すとまた惰性で過ごすことが分かっていた。

明日は、16年間続けている病院の玄関の七夕飾りを片付ける日だ。

それぞれの願い事の書かれた短冊を一つひとつ、笹の葉から取り外しながら、願い事が叶いますようにと、再度私は想いを馳せていた。。

恐らく、来年はこの場には居ないだろうと決意した日が、いよいよ明日で最後になると思いながら、濡れたベランダの手摺に両手を広げて雨空を見上げていた。

亡くなった母親の宿題として、約30年近く続けて来た「病院ボランティア」活動を、私自身はもう充分にやり切ったというか、やり抜いたと思っている。
私の決意とは、病院ボランティア活動の「終活」を、意味している。

これで良いと自分の決意に、何とも言えない開放感に包まれた七夕の夜だった。

2019年

7月

03日

一歩前進出来た

水無月から文月に変わった途端、突然、降って湧いた様に、パソコンを学び直そうと思い付いた。
基礎から、始めることを意味している。
長年、つい目先ばかりの事を片付けるという、全くその場凌ぎで処理してきたからだ。

根拠は分からないが自分の想いを「文字化」することで、煩わしさから不思議に解放されるのである。
つまり「心の整理」が出来ると言う効果が、私の健康管理とも繋がって、不可欠と言える。

些か、長年続いた生活スタイルに優先順位を付けて、取捨選択に時間が掛かった感は拭えないが、パソコンもその一つとして学び直し、新しい気持ちで、スリム化した毎日を楽しく生きていく結論に達した。

今日は新しいライフスタイルにスイッチが入る日となった。