2019年

6月

28日

七夕飾りに想いを馳せる

今年も、病院の玄関に七夕飾りの日を迎えた。

その2日 前に、主治医の診察日だったが、矢張り親友の死は身体にも正直に現れていた。
自分でも充分に自覚している積もりだが、再度、生活環境をリセットしなければならない現実がある。

笹の葉に飾りを付けながら、毎年、七夕の季節には何故か様々な出来事を思い出し、走馬燈のように駆け巡る。
既に綺麗な星になったであろう親友に、いつしか想いを馳せていた。

このままの私を続けることは難しさを感じている日々が数年来続いている。
もう少し、自分を大切にした生き方を、今回の親友の死を通して考えるきっかけが更に強くなった。

既に、ある意味では一つターニングポイントが始まっている。
そのターニングポイントは、楽しく、生き甲斐になっている。

更に、自分の気持ちは決まっているが、もう一歩進めない自分をもどかしく思っている。
そんな複雑な想いを抱えながら、飾り付けをしていた。


2019年

6月

18日

6月18日

15日からの私はメールや電話に敏感になっていた。
今日18日は、父の命日であり、恐らく故郷のお手伝いをしていることを喜んでいると思っている。

父には申し訳ないが、親友の安否に気がとられて仕方がなく、出先でも頭から離れない状態が続いた。
昼食の準備を始めた矢先、娘さんからの電話であった。
悲しい知らせだった。今朝ほど苦しむこともなく家族全員に看取られて旅立ったと聞く。

私は、娘さんにどうしても聞きたい気持ちを抑えることが出来ずにいたことがある。
それは、何故、自分の命を賭しても私に母校に行く様にと「声なき声」で私に伝えたのかと言うことだ。

娘さんは、私の気持ちを察するかの様に、「母は淺野さんのホームページやブログを毎日、とても楽しみにしていました。特に、昨年の母校での新聞記事を友人達にも、嬉しそうに見せていました」

「今度、帰郷する時は、何とか時間を作って、新大阪で途中下車して逢いたいなぁ。私達も歳だからと言っていた矢先でした。本当に元気なうちに逢いたかったのだろうと思うと、残念です」

娘さんから、改めて親友の想いを聞いた私は、胸が締め付けられる程、後悔で辛かった。

転校時からずっとずっと、私のことを見守っていてくれた親友の想いを知り、何て素晴らしい親友に恵まれたのだろうと、今後は親友の為にも大切に生きていこうと想っている。


2019年

6月

14日

14日から15日にかけて

帰宅後間も無くの午後7時近くと記憶している。
今月のホームページにも「声なき声」を聴くというテーマで取り上げた。
関西在住の親友が突然、集中治療室に搬送されたという、娘さんからの連絡に、私は、未だ新幹線に間に合うというと、既に駅に向かっていた。

この親友には、私が故郷の岡山から、高校2年生として転校した時、折に触れ時に触れ、東京の生活に慣れない私を支えてくれた恩人である。

集中治療室と聞いた時、気掛かりな想いが頭を掠めたからだ。
今日、東京の生活に溶け込めるように基礎的な役割をしてくれた有難い存在だと思っていた私は、感謝の気持ちを伝えたかった。

集中治療室の親友は、穏やかな表情に安堵するも、声を掛けても微動だもせず瞼を閉じたままである。
耳は通じるている筈だと、静かにゆっくりと、話しかけ続けた。
約30年間、医療ボランティアとして培ってきた体験の全てを、親友の為に試みた。

ドクターに私の立場と想いを伝え、話し掛けて一時間過ぎた頃、瞑ったままの目尻から、薄っすらと涙を流した。
聞こえていると確信を持った時、私はこれまで続けてきたボランティアはこの親友にとって必要だったのだと、自分に言い聞かせた。

既に日付けが変わったと知った時、親友が私の方に顔を向けた様に見えた時と同時に、親友の声が聞こえた気がした。

丁度一年前の15日、母校の小学校を訪れる為に61年ぶりに故郷の地に降り立った日であった。
「貴女を育んでくれた母校に、昨年のお礼をして来なさいと、今からだと間に合うでしょ」と聞こえた親友の声を「ありがとう。貴女の言う通り、行って来ます」

これまで、六回程帰郷しているが、「あさくちブルー」だったが、何とバケツをひっくり返した様な土砂降りの母校が迎えてくれた。
一寸先も霞む程の大粒の雨に、私は、昨夕からの目紛しい出来事に、暫く呆然と佇んでいた。

生死と闘っている親友は、私が故郷の母校に対する想いを察し、背中を押してくれた気遣いに私も大粒の涙が頰を伝わっていた。

2019年

6月

04日

新しい旅立ちの日

先月、約束した通り、今、私は新幹線の車内で書いている。

やっとこれまでの生活のパターンを変える時が来た。
何年振りだろうか、編集時代から美術の仕事をしている時と、同じリズムを取り戻し始めている。
歳を重ねて来たから、全く以前の様にはいかないが、長いトンネルを抜けだした気分である。
私にとっては、出張先で、初対面の人との出逢いが心地よく、ゴルフ場で一緒にプレーする感覚と似通っている様に思う。
出張が疲れないとは言わないが、疲れ以上に、私は多くの収穫があったと思えるからだ。
また、私は、このライフスタイルに戻ることが出来たというか、未だスタートしたばかりだが、確かに新しい旅立ちの第一歩の車中に居る。
小学校4年生の時、担任の先生が私の小さな能力を見出し、その後時を経て61年振りに母校の校長先生が、一冊の私の本を心に留める機会が無ければ、恐らく帰郷する機会も無いまま過ごしていたと思う。
いつしか、心の底に溜まった「澱」と闘いながら、立ち直れないでいた私に、「お帰りなさい」と温かく迎えてくれた母校に、救われたのである。
そしてこの年齢の私を必要と認めてくれた故郷や母校の為に、残された人生が少しでも報われる様に努めたいと想って居る。
ちょうど、一年前にテレビと縁を切り、また活字の世界、特に新聞を克明に時間が許す限り目を通しているが、私には、一瞬のビジュアルな世界の知識より、何度も読み返せる方が性分合っている様だ。
今も、薬学部の3年生の学生に抗議をしているが、丁度私の孫の年齢である。
言葉にもその表現にも、出来る限り、新鮮な話題を提供する様に努めているのが、とても楽しく、何時迄も、頭の回転が鈍らない為にも、このライフスタイルを続けていきたい。