2019年

8月

31日

八月を終えて

今日で暑く熱い八月が終わる。
今、私にとって八月を珍しく振り返る気持ちが湧いて来た。

勢い良く、先ずはこれまでの私のパソコンを始めタブレット、スマートフォンは、必要において一時凌ぎで、何とか誤魔化して来たと思い、学び直しを決心、ほぼ連日一時間パソコン教室に足を運んでいた。

然し、何故かレッスンに集中出来ない自分に疲労感しか覚えない毎日だが、勝気な性格のみで乗り切って来たとしか思えない。
そして今、確かに、2020年に対応する為には避けられない事だと冷静に理解するも、能力というか記憶力が持続しない自分に気付く毎日だった。

また目まぐるしく変化や更新に対して、私にはその表現方法に威圧感を覚えるからだ。
何時も機会に支配されて、何時までこの状態が続くのだろうか。
遂には、一切合切、唯の固定電話とメールだけに絞った環境下に戻りたいと苦しむ日々もあった。

これが加齢というものだろうかと、想う一方で、私は、小学校時代に協調性に一部欠けていると指摘された性分は、未だ体に残っているのだと思い当たるのは、よく私は「エクセル」が苦手という点からも、
アナログ的表現だが、「枠」内に収める行為に一瞬、拒否反応が起こる。

一方で、思い掛けない出逢いや、表現力や文字化する作業の機会が、私を元気にしてくれた。

今、小学校時代に自分を置いて、多様化する未来に向かってどの様な未来図を展開すれば良いのだろうかというお手伝いをしているが、数日前の主治医からも、そのライフスタイルが心身共に相応しいとの判断に、相性の悪い対象者、対象物にどう向き合うかをしみじみ考えた暑く熱い八月だった。

資料整理していると、こんなメモが見つかった。
米長邦男名人が、「笑顔と謙虚さと優しさが勝利の女神を味方につける為に不可欠」であると。
猛暑で言い訳する気持ちはサラサラ無く、確かに素直に米長名人の名言が該当していた。


2019年

8月

21日

挨拶から素晴らしい出会い

自宅の前が直ぐバス停での出来事で、同じ時刻に2週間に一度位で、とても品の良い婦人に出会って、さて半年になるだろうか。
お互いに、無意識に自然に、お互いに笑顔で、「お早うございます」と交わすだけだった。

ある時、バスが遅れて、つい私も何と無くそのままで離れ難く、今も何から話す事になったのか、残念ながら私には記憶が飛んでいる。

その方が「どちらのご出身すか?」との問い掛けに、私の頭の中はおよそ半分以上占めている状態が昨年61年ぶりの帰郷から続いている。

即座に「岡山県」です。バスが未だ遅れている。
「岡山県のどちらですか」「岡山県で、一番小さい瀬戸内寄りの浅口市の出身です」

これまた、相手の方から即座に、「素晴らしい岡山県出身の女性を知っているので、ご紹介します」
「えっ、岡山県出身の方ですか。是非、お目に掛からせて下さい。こんな偶然が有るんですね」

今日21日にお目に掛かれる迄の経緯です。

偶然に偶然が続きます。とても素敵な女性で、浅口市から二駅先の広島より出身の方でした。
年齢的には、私より遥かに若く娘の年代だが 、不思議に窓を開けると、お互いに符合するのである。
その場は、お互いの接点が多く、話題は尽きなく、東京にいながら、故郷岡山の世界が限りなく広がって行くばかりである。

こんなに偶然に偶然が生まれるなんて、信じられない時間を過ごした。
上京して、こんなに故郷尽くしのプレゼントを下さった婦人とは、バス停で、今日はお目に掛かれるかと待ち焦がれる日々である。


2019年

8月

16日

お盆休みは大掃除

もう長年我が家では、冬は寒く体が固くなるので、大掃除は夏のお盆休みが恒例になって久しい。

今年も10日の二人の母の命日を終えて、さア頑張ると張り切ったところ、昼夜冷房を入れているせいか、喉を痛めて、何となく出鼻を挫かれた感じで、等々初日の1日は休養日と決め込む。

然しどうも落ち着かず、此れ迄の整理しようと思っていたアルバムを取り出した。
既にセピア色に変色した幼い頃のモノクロームの写真から、最近までを思い切って仕分けを始める。

思い出の詰まったアルバムを何故整理処分作業をするのかと、理解出来ない方の方が世間では多いと思うのだが、此の所、私の周辺というか友人、知人の訃報が続いている。

個人差はあるが、今、、世間でも話題になっている生前の故人の所有物の整理に苦慮している人が多い。

実は、私は30から友人達に思い切りが早過ぎると言われ「「かたずけ魔」とか「捨て魔」と名ずけられるほど、結論を出し処分する素早さを指摘されても、不愉快にはならない。

その根拠は、長期間、一つの問題を案じていると必ずと言って良いほど体調を崩す健康との関係がある。それよりは、次なる事に向き合って歩む方が、心身共に回復、前向きになれるからだ。

もう一つは、極々小さいながらも経営者になり、結婚より生き甲斐を感じ始めた私は、将来は他人様のお世話になると気付いた時から、徐々に身辺整理を粛々と進めていた。

さてさて、毎日続けた整理する中で、今年の大掃除の成果で新聞の切り抜きの内容が変わっている。
つまり、無意識のうちにターニングポイントの為に、ガラリと整理する優先順位に変化を感じた今年の大掃除となった。

最後は矢張り、心身ともに気軽くなったが、まだ今後の休日が必要の様だ。
その休日には、何から始めようかと準備している時間も、私には楽しみに繋がる。

2019年

8月

10日

二人の母の命日

今日8月10日は、私の二人の母の命日にあたる。
一人は、疎開先の岡山の産みの母親である。
もう一人の母は、中学校の国語の先生で、嘗て、母校の小学校の先生が、私の文章力を見出してくれた後、中学校でも同じ様に文章力に心を注いでくれた先生です。

機会ある都度、出来るだけ毎日何でも思いついた事で良いから、書き留めておく様にと気に掛けて、穏やかな口調で私が在学中、励ましてくれた先生です。

出来栄えは別として、今日の私が言葉探し、文字化する下地を作ってくれた母の様な、母の存在です。
17歳で、上京した後も、在学時代と同じ様に励ましの手紙を頂いた。

その後、私が宿泊関係の竣工式場で偶然、「淺野マリ子さんじゃない?どうしてここにいるの?」
「実はこちらで、アートコーディネーターのお手伝いをしたので、私も式典に来ました」

そう言えば、美術の仕事の報告はしていましたが、名刺は渡していない事に気付きました。
「マア、名刺を持ってお仕事する様になって、大切に持っているわね」

実の母親は7カ月の未熟児で生まれた為に、虚弱児で病気がちの私を案じているばかりで、穏やかな、優しい表情とは縁遠く、常に私の健康状態を観察する記憶が強く残っている。

その為に、何をしても微笑みで私が遠くにいても何時も案じてくれる中学校の先生とは対照的な二人の母親でした。

その二人の母は奇しくも、1997年に生母を、その33年後に旅立たれたのでした。

2019年

8月

07日

言葉を探し、表現する楽しさ

7月末の故郷の小学校の学校運営協議会から帰京後、間も無く、母校の「ブランディング」という案が、会長から思い掛けなく伝えられ、実は私も全く密かに脳裏を過ぎっていただけに、素晴らしい浮上案にお手伝いしたいと想っていた。

この案に私は大賛成で、さて「ブランディング」で、2005年から約2年間、「区民憲章」作成のお手伝いをした時の言葉探しに苦労した記憶を思い出した。
当時は、無我夢中で、自分では納得しても、凡ゆる表現から受け止める事に、個人差がある経験もした。

今、約15年の時を経て、あの時の体験を多く学んだことが生かせる立場に、私は言葉を文字に、表現する作業は、殊の外、当時でも大きな生き甲斐だった。

今度は、我が母校の小学校の為にお手伝いが出来る幸せで、異常な暑さにも拘らず、スイッチが入っている自分の高揚感が分かる。

改めて、ブランディングについて、考えるにあたり、切り抜いたままの山積した新聞の記事から、不思議に時間の経過から、ふと、思い出す記憶力に自信を取り戻すのである。

2019年7月1日の日本経済新聞朝刊の教育面に、法政大学総長の田中優子氏の「法政大学のブランド戦略」の記事に拠れば、『「ブランドとは社会との約束である」という考えを軸にすえた。』一節である。
その「社会との約束」は全員で作る」との記載に、私は、自分の想いが纏まっていく決意に繋がった。

故郷では、旧暦の8月7日が七夕であり、私案を投げ掛けて、故郷の小学校の素晴らしいオリジナリティ溢れる「ブランド」に少しでも役に立てるよう、遥か東京の夜空から願いを込めていた。

何時も求められた時に、これまでの生きて来た経験が、時を経て活かされる、決して無駄は無いとの想いに、歳を重ねるのも良いものだと思った次第である。

今から、私案に対しての運営協議会委員から、どの様な反応があるかを楽しみにしている。




2019年

8月

01日

ドアが開いた

昨日、主治医の先生の診察を受けた結果、心身共に現在の私の健康保持には、故郷の力が良い効果に繋がっているとのアドバイスに、今朝から視界が大きく広がりを覚えた。

長い期間、気持ちは決まっていたが、今一つ躊躇していた自分を腹立たしく感じていた。
でも、今日から、迷う事もなく、雑音も気にならない変化に驚いてもいる。

これまで私のブログから、何が後期高齢者を目前にして迷っているのかと、私を案じてくれる友人も少なくない。

今年の5月、母校の小学校の運動会で、厳しい暑さの中で一生懸命に頑張っている子ども達の姿に、いつしか胸が熱くなり、心の中は涙が溢れていた。

新しい日本を担っていく母校の子どもたちを愛おしく、何かが私の中で起こっていた。
もう一度、子ども達の様に一生懸命なれるものが私も求める感情が、日を追って強くなって来た。

その私の想いを察したかの様に、母校の小学校から「学校運営協議会」の委員の一人に故郷の浅口市の教育委員会から委嘱という、思い掛けないミッションを頂いたのである。

遡ること、令和元年6月4日のことである。
その日を機に、私は母校の小学校の子ども達の為に、全力投球をしよう、したいとの想いを決心すると、不思議に目の前の重いドアが開いたのである。

昨年の6月の61年ぶりの帰郷から、既にその下地は用意されていたのかもしれないとの想いが過ぎる。