今回の新型コロナウイルス発生以来、世の中の仕組みの変化を感じ、凡そ2ヶ月前に、カードの申請に出掛けて、カードが手元に届くのは、2ヶ月と説明を受けた。
正にその通りに、ポストに役所からの封書が届いていた。
そうだ、今日で、四月が終わり、長期の休日を迎えるので,、散歩がてら区役所まで散歩がてら、何か一区切り出来た気持ちもあり、足取りが軽い。
さて、カードには、また本人確認の為にパスワードが、必要である。
又、一つマイカードのパスワードが仲間入りした。
嗚呼、もうパスワードの渦に巻き込まれない為に、必死に記録を残す様にしているが、限界に近い。
もしかして、コロナを機会に新しい生活スタイルの一つなのだろうが、些か、パスワードが、今後更に、カード社会に変化していくであろうが、何処までカード社会が占めていくのだろうか。
まあ、私にとってはお陰様で、4月で、人並みの内の一つを成し遂げたと安堵の気持ちがある。
もう「これっきり これっきり」 にしたいと思っている。
今日は昭和の日について、今月の27日の日本経済新聞の「時流 地流」のコラム欄に、地方には「昭和」がいっぱいに、ローカル線の風景や古い列車から見える車窓の風景を記している。
驚く程昭和後期の姿が残っているが、新幹線で岡山から在来線の山陽本線に乗り、矢張り車窓から見える風景の中に、既に半世紀以上も経ているが、記憶に残った今にも倒れそうに、朽ちかけた家が目に入る。
曾て、この家や微かに読み取れる看板に、確かに私も育った昭和時代が蘇ってくる。
特に、ふるさとの駅が近付くにつれ、目を皿の様にして車窓から見える家並みや田んぼや川の流れなど、未だ多くが残っている。
特にどっしりとした瓦屋根の家を見ると、もしかしてあの家は小学校の友達の家ではと、微かな期待を持ってしまう。
駅に着くまで、いくつも未だ昭和を残した家に、小学校時代の思い出が幾つも未だ生きている様に思え、特に、私は今回のステイホームを耐えるのが厳しくなって、心身共にシグナルが点灯し始めた。
二病息災の私には、その原因は分かっているのだが、どうにも出来ない現実だ。
主治医の先生も、薬とふるさとの母校が私の健康上の治療に適しているのは明白だが、新型コロナウイルスには、今、薬を服用する以外、諦めなければならない。
不謹慎な考えだが、ステイホームではなく、ふるさとでのショートステイが出来ればと、敵わぬ想いを馳せている。
「昭和の日」に、ふるさとの「昭和」を思い出す機会の日になった。
幼児期から、病弱だっただけに、我慢する、頑張ることに警戒心の強い私も、今回はこれまでで一番長い我慢の日だと思っている。
一方で、我慢の日々を過ごしている訳だから、私も人生経験として、忍耐力をこの歳で学ぶ毎日である。
先日、年寄りの冷や水と言われる私にとってはよくぞ、弾みとはいえ、馬鹿力を発揮して、隠れた9年年間の埃は取り去った。
然し、何か忘れてる様な気持ちが続いていた。
友人から、「今日衣替えをしたけれども、最近の防虫剤は匂いが強くて、無くなるのも早くない?」と、電話があった。
嗚呼、そうだ、夜中の大掃除だったので、掃除機も遠慮して、そのまま広げたものを元に戻し、後でと思っていたが、すっかり、残り少なくなった紙資料に相棒の鋏で相変わらず、チョキチョキしていたのだ。
日中だったので、断捨離から、もう一度中身を出して、掃除機をかけ、防虫剤を入れ、食器棚は消毒液で拭き取り、ヤット、胸を張って大掃除をしたと言える。
実は、私は長年、大掃除は5月の連休を使っていた。
というのは、母親から、冬季の掃除は寒いし、風邪をひきやすいので、長年の習慣になっていた。
今年は僅かだが、2週間ほど早く済ました。
また、曾て、銀座で美術の商いをしている時も、思い出せば、内装を5月に数年おきにしていた。
もう一つ、母親の5月大掃除の根拠を思い出した。
5月は、光線が明るく、隅々までよく見えるからだとも言っていた。
確かに、身体も動かし易く、私の健康上を考えての教えかなとも思ったりもしているが、、不思議と頭にインプットされている様で、今年も無事に終了した。
これで数年は、家具の移動を出来るパワーがあるかは自信が無い。
やはり、これも新型コロナウイルスによるものと前向きに考えるように、自分に言い聞かせている。
後期高齢者になった記念の、人生の大掃除かな。
ヤット埃を取り除いた時は、既に日付は翌日の23日になっていた。
毎朝のルーティンである6時に新聞を取りに行く時刻だった。
ステイホームの為、時間はたっぷりあるので、新聞に目を通すのが楽しみだ。
死亡欄に、皆川達夫氏の名前に、最近はご無沙汰していたが、日曜日の朝のNHKラジオ第一の「音楽の泉」を楽しみにしていた。
ネットで調べてみると1949年から31年も続いていたと知る。
今年の3月29日に、「今日の放送をもって私の最後の放送とさせていただきます。これでお別れします。皆さん ごきげんよう」と紹介されていた。
何時も穏やかな語り口といい、品の良い表現に、私は心魅かれていた。
つい、最近は特に、新型コロナウイルスの情報に敏感になって、心に余裕がある様な番組に気が付かなかった自分を悔やんだ。
然も何と最後まで視聴者の気持ちに寄り添い、心遣いを示されたと知り、改めて人としての大切な人生観を残し、教えて下さったと想った。
と、同時に音楽評論家の黒田恭一氏を思い出した。
断捨離を続けている私だが、何かの時にと、心に残る言葉だけを書き留めたメモに、確か黒田恭一氏の、NHKのラジオの「ミュージックプレゼント」の終了時に、必ずや「お気持ち 爽やかに お過ごし下さい」と。
この言葉に、私は心から爽やかになった。
未だ猛威を振るう新型コロナウイルスの時代 故に、とてもお二人の存在が如何に貴重だったかと、つくづく残念に想う。
因みに、ネットで調べると、2009年5月29日に天国に召されています。
「音楽の力」を私達に残した功績に、感謝の気持ちでいる。
眠れない夜を過ごしていて、4月という月は私にとってはいろいろなことが起こる月だなと思い出していた。
9年前の今日、4月22日は晴れ女もお手上げの一寸先も見えない程の激しい雨が降っていた記憶がある。
何と東京の我が家は東日本大震災の影響で、凡そ50年前のペンシルビルの我が家が、かなり悲惨な状態で、元通りに戻すには、寧ろワンルーム程度のマンションが買えるほどの修繕費がかかるという。
幸いに、嘗て気に入っていたマンションの広告が新聞の折り込み広告に、全く偶然というか、不思議な巡り合わせだった。
直ぐ、広告の不動産会社に電話をかけ、その日の夕刻、即刻購入を決め、引っ越し等で1ヶ月近くで、現在のマンションに引っ越しし、大雨の22日に友人と引っ越し祝いの日だったのである。
もうびしょ濡れの記念日となって、早いもので9年を過ぎたのである。
その翌日の23日は、28年前、チョコレート膿腫に気が付かず、片方の卵巣が破裂して手術をした日だった。
そして今年は新型コロナウイルスとの闘いの日が続いている。
眠れない中で、どうやら4月は、私にとっては、色々な体験の月の様だ。
思い切って、引っ越し後、一度も家具を移動する程の大掛かりな掃除はしていない。
眠れない夜を過ごすと、前向きな発想より、どちらかといえば後ろ向きになりがちなので、起きて、家具の後ろの埃を取り除こうと。
食器を、洋服を、書類を先ず、全て取り出しているうちに、カーテン越しに夜明けになった。
9年間の埃は、かなりの量で、一人で、なるべくマメに日頃の掃除を心掛けているのにと驚いたが、よくぞ、重い家具を一人でで動かせたと、複雑な満足感と達成感を感じつつも、いつかこの疲れが倍返しになるのではと、後ろ向きの考えが過った過った。
新型コロナウイルスが、私の心の中を日を追って、自分との闘いを占め始めた。
というのは、私のこれまでの生きてきた人生そのものを全否定される様な重さを感じ、今後どの様に生きていけば良いのだろうかと、これまで「ラジオ深夜便」を、BGMの様な心地良さが一変した。
確かに聴こえているが、頭の中では今後の「新しい生活様式」としての「新たな日常」について、悔しいが、発想が浮かばない苦しさに、睡魔が姿を消してしまった。
もう眠くなるなんて状態には陥らず、走馬燈の様に様々な考えがグルグルと頭の中をかけ巡るだけである。
恐らく認識への個人差はあるだろうが、夫々が私と同じ様に思い惑う人は私だけではないと思うが、立場立場で新型コロナウイルスの重大さを感じた人はいると想う。
全く情け無く恥ずかしいのだが、常に対面と現場で、フェースツーフェースの世を重視してきた私には、「三密」という生活スタイルに、全てを「シャットダウン」以上に「削除からゴミ箱」を意味していた。
折角、社会的には「非生産的な年代」と扱われても仕方がない後期高齢者になっての余りにも、急激過ぎて、持ち前のセッカチな性格も太刀打ち出来ない程の衝撃だった。
医療の現場にも、精神的に区切りを付け、此れからは母校の小学校での「学び直し」を生き甲斐に決めた矢先だったからである。
もう、今後の残された人生さえ、否応もなくもぎ取られた私は、年齢から、この辛さは筆舌に表せない程に重いものであった。
さて、いつ、重い霧が晴れるのだろうか、眠れない夜を何時まで過ごすのだろうか。
前日16日の夕刻、予想はしていたが、全国に向けて緊急事態宣言拡大のニュースに、嗚呼、等々猶予できない状況になったんだと、受け止めていた。
翌日、兎に角この自閉生活から一瞬でも、外の空気に触れたく、目的もなく、唯、気がつくと、歩いていた。
不思議といつもの歩き慣れた道を歩いている先に、スーパーが目に入った。
然程の混雑もなく、此れもまた、求める物もなく、店内を歩いていた時である。
そうだ、益々、外出を始め、規制が厳しくなるなあと思っていた先に「ままかりの酢漬け」に、即座に反応した私は手に取り、更に、もしかして、「鰆の刺身」はと刺身コーナーに足を急いだ。
残念ながら鰆の刺身は無かったが、目を転じた先に「サヨリの刺身」をみつけた。
茨城産であったが、今後いつふるさとで、味わう日が来るか分からない。
茨城産のサヨリなので、迷いがあったが、頭の中には、ふるさとの味を思い出している自分にがいる。
今夜の夕食は、「ままかりの酢漬け」と「サヨリの刺身」で、日を追って遠くなっていくふるさとを思い出すとしよう。
曾て、そう言えば「最後の晩餐」と言った番組があったと思い出したが、不思議にも悲壮感はなく、もうこれで良しと、スッキリ感を感じる。
これも自粛生活で、遮断されていた生活から、抜け出した僅か一時間程の時から、自粛生活あっての賜物と、妙に、謙虚に受け止め、これも何かの経験で、必ずや、いつか役に立つだろうと、想っていた。
新型コロナウイルスの緊急事態宣言から、土曜日の10日の資源回収に出来る限りの断捨離に励んだ。
といえば聞こえが良いが、前日9日に母校の入学式が、あさくちブルーに満開の桜に迎えられたブログに、喜ばしい筈が私は胸が痛くなり、涙が溢れて来たのです。
今年の3月でピカピカの後期高齢者を機に母校の小学校で、「学び直し」を決めていた私は、入学式に参列するのを、新しい人生のスタートと心密かに決心していた。
然し、最後の生き甲斐でもあり、人生の終活とも想っていただけにそのショックは、私の心も体にも言い尽くせないほどに立ち直るには、唯、唯、ダンボールから取捨選択をしながら、黙々と鋏を動かし続けた。
見える物は、鋏で目の前から無くなるが、見えないものの断捨離があると気が付いた。
それは、政府の対応である来月の6日迄で、収束、終息するとは思っている人は、本当にいるのだろうか。
新型コロナウイルスのはそんなヤワなウイルスではないというのは歴然としているのであるからだ。
何を根拠にと言われると、ネットで既に各自治体による凡ゆるイベントが、次から次へと8月頃までは中止という判断を出している。
何故5月6日という短期限に決めたのだろうかと、どうしても私には、一時凌ぎの様に思えて仕方がないのである。
本当に、信じて良いのだろうか、不安が日を追って強くなる。
初めて、61年振りに母校の小学校での凡そ二年間の思い出が、逆に私にとっては言葉にならない程の苦しみだと気が付いたのである。
恐らく、もう私が母校の小学校に帰れる日はないと思っている。
先月の35日に母校で過ごした2時間半程の楽しい思い出を以って、私は母校の小学校を断捨離しなければならないと、来たるべきものが予想以上に足早に来た現実を悔しいが認め、受け入れる覚悟をしたのである。
誤解しないで欲しいのは、大切なふるさとを想うと、先の見えない新型コロナウイルスが収束、終息する迄は、素晴らしいふるさとの地や学び舎の母校の小学校を、精神的に断捨離するしか、心を治める為に考え考え抜いた結論である。
昨夕の新型コロナウイルスに対しての、緊急事態発言が発令された。
数年をかけて、考えに考えた後期高齢者を迎えるにあたり、自分の限界と、残された時間を大切に、楽しくとの結論に至った矢先だ。
さあスタートが順調に行くかに思えた希望と生き甲斐が無惨にも新型コロナウイルスの発生で、自分の行動について、もしかしたら、私も既に見えない隠れ感染者かも知れないのである。
そう思うと、これまでの人生設計を一考し、工夫し、再度リセットしなければならないという現実が見えないで、あちこちに浮遊しているに違いないと思っている。
唯、救いになるのは私は昔から「断捨離」という言葉より以前に「捨て魔」と言われるほど、目の前にある物が一瞬にして、不要、目障りと嗅ぎ分けるや、鋏とゴミ箱を携えていたのである。
断捨離や整理整頓は、心の整理に繋がると言われている故に、この自粛生活で引き籠っている間に、私がコロナウイルスに罹らない為にもこれっきゃ無いかと思っている。
これも未だ幾分は頭の働きが衰えない内に、良い機会と捉えるとしようと、昨夕の緊急事態宣言から、コロナウイルスによるターニングポイントの始まりと決めた。
取り敢えず、1ヶ月では、収束、終息出来る程の新型コロナウイルスとは思えない。
既に、昨夕の指定7箇所からの拡がりに、私は不安を覚えている。
先ずは、如何なる状態になっても、平常心を忘れないで居たいと願っている覚悟を持ち続けたいと、自分に言い聞かせている。
昨夜から、政府で検討されている首都圏他に対する緊急自体発言の報道で喧しい週末を迎えている。
もうこの新型コロナウイルスには、もうどうする事も出来ない。
決定的な解決方を未だ模索中といってもいいと言える。
そのくらい、未知の奥行きの深さに、尽力を尽くしている関係者には厳しい発言かと非難を承知で、奥深い未知の敵と戦わなければならないのだ。
明日は、私のふるさとである母校の小学校の始業式である。
その前に、今日を限りに、私は、凡そ二年間の母校やふるさとの想い出を大切に心に秘めて、もう、素晴らしい想い出だけをもって、ふるさとへの帰郷は諦めたというか、現実を受け入れる様と決心した。
本来の私は、諦めるという考え方は、良しとしないが、今回は、新型コロナウイルスの現実を受け入れるという意味である。
ノーベル受賞の山中教授のホームページに拠れば、逃げずに真正面から真実を伝える事実から、早々に簡単に長期に亘る可能性を伝えている。
人は、出来るだけ酷な辛い現実からは目を背けたいと思うが、逃げない勇気が最も必要とされているのである。
正に、今回は自己責任をしっかり受け止めて、責任を持つことでは無いだろうか。感染しても、それは自己責任によるものとして、日本人が大人になるという事を試されているというか、新型コロナウイルスで、国際人としての大人への成長の機会かとも、私は批判を承知して、この様に想って来るまでに辿り着いた。
もう、全ては受け止めて平常心で、当たり前だった日常生活の有難さを思い直す機会と、諦めるのではなく、勇気を持って受け入れる迄には、私も苦しんだが、明日から如何なる事にも平常心を忘れないで行きていきたいと心に言い聞かせた。
今月もふるさとに帰るのを楽しみにしていた矢先、勇気あるメールが届いた。
出来れば、感染王国の東京からの、帰郷は、遠慮して欲しいと、遠慮がちに配慮した内容であった。
ハッと私は、自分中心の想いだけで、例え、如何なる理由があっても、大切なふるさとに、もしかしたら新型コロナウイルスを持ち込むかも知れないという、心遣いが無かった私は、自分の愚かさを恥じた。
勇気ある忠告に、一も二もなく私は、尊敬の念を覚えた。
然し、正直なところ、非常なショックを受けた私は、久し振りに涙を流す程に、胸が締め付けられる程、やり場のない想いに襲われた。
気がつくと、私は、わらべ歌の「通りゃんせ 通りゃんせ」を口ずさんでいた。
「通りゃんせ」の一節に、「ちょっと通してくだしゃんせ ご用のないもの 通しゃんせ」。つまりは、私の想いのみでのふるさとへの帰郷は、慎重にとの心ある警告であって、有り難いと思うものの、心は張り裂けるほど、新型コロナウイルスを憎んだ。
その想いが、わらべ歌を思い出し、自分の気持ちを込めていたのである。
「コロナがふるさとを通りゃんせ」にしたのだと、私は何度も口ずさんでいた。
このわらべ歌には「行きはよいよい 帰りはこわい」とある。
もしも、私がルンルン気分でふるさとに帰った後、大切なふるさとから私の帰郷で、新型コロナウイルスの置き土産にする可能性だってあるわけで、江戸時代から伝わる子どもの遊び歌と言われている「通りゃんせ」には、重要な奥の深い教訓が含まれていると気付いた。
新型コロナウイルスは、人類を最高の不安に陥れる反面、負け惜しみに取れるかも知れないが、新しい気付きを導く知恵も生まれる可能性があると前向きに想いたい。