2021年

3月

31日

さよなら「あさくちブルー」

弥生3月31日、東京も今朝から我がふるさとの「あさくちブルー」にも、劣らない青空と言いたいが、上空を見上げると、どうやら黄砂で、澄み切った青空は望めない。

 

今、私はふるさとの母校の小学校の校庭で、見上げた青空を思い浮かべながら、いつかは必ずや訪れると思いながらも、61年ぶりの帰郷に始まったふるさとの数え切れに程のほどの多くの思い出の詰まった「宝物」を胸に抱えて、今日を以って「お別れ」します。

 

母校の小学校の校長先生が、書棚から拙著「笑顔の力」からの、「笑顔の縁」によって、遠い存在であった「ふるさと」へと導いてくれたことを

忘れることは、永遠に出来ないと想っている。

 

そして、離れて初めてふるさとの良さに、私は改めて魅せられ、見せられ、心ゆくまで、楽しんだ。

 

母校での学び直しを申し出たが、コロナ禍で、2020年3月25日を最後に

あさくちブルーの母校に帰ることができなったにも関わらず、僅か、前年度の2019年の1年間だけになった。

 

ところが、校長先生の優しく温かい心遣いによって、私も令和2年度第74回の卒業証書を頂いた。

 

校長先生もこの3月で、定年退職ということも重なり、いつ果てるとも

わからないコロナ禍の中で、帰郷は困難と考え、母校に「さらば」を

告げる日になった。

 

これを機会に、3月で76歳になり、今回を以ってホームページの更新をお終いにさせて頂きます。

 

「さよなら、あさくちブルー、我が学び舎の母校、そしてありがとう」

 

2021年

3月

27日

桜吹雪に想いを馳せる

14日に東京の桜開花宣言後、凡そ、2週間たった土曜日の午後、近くの公園の桜はちらちらというより、風が吹くと、花吹雪に、子どもたちが散る花弁を手を広げながら一所懸命に追いかけている。

 

思わず、その表情に、子どもたちはいつも楽しいことを見つけて元気だ。

 

そんな風景を見ていると、つい、母校の小学校に想いを馳せている自分に

気が付く。

母校の小学校の桜は、まだ、25日の修了式の日は5分咲きだとブログで紹介していた。

 

今日は、七十二候の「桜咲開」にあたる「桜」の日だそうだ。

きっと、今頃は子どもたちのいない静かな学校の桜は、満開ではないだろうかと思いながら、散った桜の花を拾っていた。

 

何となく、散り行く花弁が母校の小学校の桜と重なってしまうのである。

 

その私に近くにいた女児が、恥ずかしそうな表情で、私に自分が集めた花弁を持って、そっと分けてくれた。

 

突然のことだったが、「ありがとう」といった私に、満足そうな笑顔に小さな手を振って「バイバイ」。

 

女児が拾った桜の花弁の数個を、帰宅後、押し花にした。

さみしい想いをしていた私は思いがけなく、女児のやさしさに救われた。

 

2021年

3月

25日

校長先生の最後のメッセージ

今日は、母校の小学校の3学期の修了式で、校長先生にとっては、定年退職で最後の在校生へのメッセージの記念すべき日である。

 

既に卒業したはずの私には、まだ、大切なかけがえのない後輩がいる。

然し、今日で、母校を去るという現実の日である。

 

とりあえず、ブログのアップを待って、修了式の様子も身近に感じることができた。

 

自分の姿が映るほどに綺麗に磨かれて講堂に、緊張した生徒たちがまっすぐに背筋を伸ばし、校長先生のメッセージに真摯に耳を傾けている様子が伝わってくる。

 

思わず、私も緊張感が走る。

校長先生の最後のメッセージは、人生のテーマとしている「笑顔 輝け」だった。

 

去り行く校長先生にとっては、一番ふさわしいメッセージであり、エールだったと想っている。

 

しっかりと、短時間だったが、「笑顔の縁」で、母校の思い出と共に私も

忘れないで受け止めて、まいります。

2021年

3月

20日

墓参後のハプニング

まだ桜の開花宣言は発表されたが、場所によっては、まだ、硬いつぼみの谷中墓地の桜並みにを、見上げながら、交通整理まで出ている人出の中を我が墓地に向かう。

 

墓前では、母校の小学校の卒業証書を携えて、報告してきた。

無言ではあるが自分なりに勝手に、喜んでいると想って、自宅に帰り、友人と気持ちばかりの「お清め」を終えた。

 

昼食後、転寝をしている夕刻6時頃、地震情報共に知人からの電話に即座に

起き上がった私は、体形を崩して、壁際に頭をぶつけそうになった。

 

まず、昨年の9月の脳外科の手術を思い出し、反射的に夕食の準備のために食器のある座卓に思い切り、体をぶつけ、頭は持っていた携帯電話で食器の破損だけで、無事に頭をぶつけることは逃れた。

 

然し、その夜からの痛みで、値付けず、生憎、掛かりつけの整形外科のドクターも火曜日が診察日という不運に、打撲の症状が歴然としてきた。

 

世間で「墓まいり」をすると、ご先祖様が助けてくれる、良いことがあるなんて、本当かしらと愚痴の一つもいいたくなる。

 

誰のせいでもない、自分の注意が足らなかったためと、翌日23日の診察予約を入れて、我慢することにした。

2021年

3月

19日

母校の卒業証書授与式

昨日の18日は6年生の修了式、そして今日は令和2年度の卒業証書授与式である。

9時45から、10時45分までの一時間、60名の卒業生に校長先生の心遣いによってプラスワンの61年前の淺野マリ子もレアなケースとして、淺野マリ子も卒業証書を頂き、10時45分まで緊張の時間を過ごしました。

 

耳を澄ませば、校長先生の永遠のテーマである「笑顔輝け」が聞こえてきます。

 

偶然にも、第74回ですが、私は75歳で、母校の卒業式を受けて留める止める幸せに、去り行く母校に心が熱くなりました。

 

既にいち早く卒業証書を受け取っていましたが、私の想いは今日の卒業生60名プラス一名との喜びをもっています。

 

小学校というワンだメンタルな教育は、今後の大きな力や支えになります

ので、母校の小学校での学びを心に留めて欲しいと願っています。

 

2021年

3月

14日

東京の桜の開花宣言に寄せて

温暖化のせいか、毎年桜の開花宣言が早まっているように感じるのは、私だけではないかと、自然界も戸惑いを感じているのではないだろうか。

 

日本経済新聞の夕刊のコラム欄に、昨夜「あすへの話題」があり、俳人の

黛 まどか氏が、俳人鈴木真砂女の命日が、今日14日とあった。

 

春の彼岸を数日後に、私は、かつて銀座百点の編集部に在籍していた時、津村節子先生による「銀座の女性」という連載を担当していた。

 

その一人に鈴木真砂女さんが銀座に「卯波(うなみ)」というこじんまりとしたお店をしながら、俳句でも活躍していた方です。

 

事前にお店に取材をお願いに伺った際に、実になんとも言えない凛とし、さっぱりと、快く承諾を頂いた記憶を思い出した。

 

毎回、取材日には津村先生のご自宅までお迎えに行く車中で、目的地に着くまで、簡単な情報だけで、あとは、色々なおしゃべりをするのが、とても楽しかった。

 

あえて、先生には、先入観を与えないために、先生自ら感じていただきたいとの思いから、取材先への案内役に専心していた。

 

こじんまりとしたお店は、実にあちらこちらがさり気なく行き届いており、また、きりりと束ねた艶のある髪の毛、透明な美しい肌に、私は、

先生が取材中にも関わらず、魅せられていた。

 

今日の桜の開花について、鈴木真砂女さんはどのように詠むだろうかと

想っていた。

 

当時の銀座百点の「銀座の女性」の方々から、「老舗」といわれる日本を代表するような銀座での活躍の体験を伺い、私は多くを学んだ。

 

それ以上に、津村先生はどうしていらっしゃるかしらと、とてもとても

懐かしくなり、お目に掛かりたい想いに駆られた。

 

2021年

3月

13日

故郷の駅でもらった時刻表

今週は、「笑顔の底力」の興奮状態が続いて、落ち着かない日々が続く。

そんなとき、私は頭を冷やすために、天候も春の雨といえば情緒があるが、雷も起こるとの予報に、私は、自宅で断捨離を始めた。

 

ついでに、啓蟄も過ぎ、そろそろ衣替えも考えて、湿気を案じながらも、

先日買い求めていた防虫剤を新しく交換した。

 

断捨離が進む中で、小引き出しに、昨年3月25日に、日中は無人駅になったふるさとの鴨方駅の駅員さんが私を覚えていてくれ、2020年度の新しい時刻表を「どうぞ、変わりますから、使って」と。

 

夕刻の時間帯であったせいか、2019年の時刻表もくれた同じ駅員さんが

私を覚えていてくれたのである。

 

その時刻表は、葉書サイズで、コンパクトで、バックに入るので、必ず

帰郷の際は持参、重宝していた。

 

とうとう、コロナ禍で2020年の新らしい時刻表を使う機会はなかったが、私はこの時刻表を断捨離にはできない。

 

時刻表を断捨離すると、もう二度とふるさとの駅に帰る機会がなくなるようで、また、小引き出しに戻した。

 

今日は、2021年度の新ダイヤの時刻表の日であるが、コロナが収束するまで、私には時刻表は不要になった。

 

夕刻に、予報通り、春雷が数回遠くに聞こえた。

2021年

3月

08日

興奮と笑顔の日

昨年の新型コロナによる巣ごもり生活で、長年続いていた毎朝のルーティンを変えざるを得なくなって久しい。

 

これまでより、30分ほど、ベッドでのんびり過ごし、10分ほど、軽い体操をして、朝食の準備をすると、ちょうど、6時過ぎになる。

やはり、早く朝刊に目を通したくなる。

 

一通り目を通すと、ちょうど、7時すぎになるので、パソコンを開く。

ニュースを見る際に、自分のホームページ、ブログの検索というのか、アクセスというのか、恥ずかしながら、私にはそのあたりのデジタル用語の認識が欠如しているが、ただ、数字を見るのが、楽しみである。

 

今日8日の朝、何となく母校のブログを開いたところ、わが目を疑ったのである。

大体、私は、数字に弱く、また、間違えたと想って、何度も、数えてみるも、何と、1260,000と表示されている。

 

てっきり、私の読み間違いだと、目を凝らして数え直してに、「六条院小学校」に表示されているし。他も検索するも同じ数字である

 

思い当たる現象は、幻冬舎の「読みカフェ」によるものでは、ないだろうかと気づいた。

 

朝の7時すぎから、私はすっかり落ち着かなくなってしまった。

然し、午後には、驚くべき数字も減少してきたので、何か、ほっとする想いもあった。

 

その後も、平常心を保つことに、かなりのエネルギーを消耗してしまった私は、思いきって頭を冷やしに、散歩に出かけた。

 

散歩によって落ち着きを取り戻し始めた時間は、ちょうど、夕刊が届く時間帯である。

 

夕刊の下に、懐かしい母校の校長先生の肉筆の封筒が入っていた。

開封して、びっくり、小学校の活動報告の会報と共に、「卒業証書」が同封されていたのである。

 

かつて校長先生と約束していた卒業論文である「笑顔の底力」が、校長先生が評価してくれたのである。

 

校長先生には、幻冬舎から連絡が入って、嬉しさのあまり、電話で報告したのである。

そして、校長先生は直ぐに「はなまる」と認めてくれたに違いないのだ。

 

今、社会人が、大学での学び直しをしている人は多いが、私のように小学校での学び直しをする人は、珍しい稀有な存在かもしれないが、私はあえて、頭が柔軟な時にときに学ぶのは、かけがえのない大切さを秘めているように、実際に授業参観を同席して、初めて気づいたのである。

 

終生、2021年3月8日は忘れられない私の至福の1日と日になった。

 

2021年

3月

06日

76歳を迎えた朝

嗚呼、今朝目が覚めて、個人的に変化の多かった私は、やっと75歳という歳にお別れを告げる日が来た。

 

然し、決して悪いことばかりでなく、寧ろ、その変化に耐えかねたプレゼントを、誕生日前の2日にいただいた。

 

それは、「読むカフェ」に、久しぶりに投稿した結果、「最新おすすめ作品」として、紹介されたされたのである。

 

前回のブログにも、風向きが変わったいう言葉がぴったりの、久しぶりに心から、嬉しさが漲った。

 

76歳に早くなりたいとは思っていたが、まだ、目標が定まらずに些かの

焦りを感じていただけに、最高といっても良い。

 

さあ、これで、筆力に自信を無くしていた私は、もう一度、言葉の力とか、新聞をはじめとするいわばオーソドックスなものに取り組みたいと

以前から脳裏に残像のように残っていたものに対峙できると思った。

 

これで、我が母校の校長先生との約束である卒業論文と称する「笑顔の底力」を提出できると、とりあえず、コロナ禍で2020年はとうとう出席不可能であったが、そのための卒業論文であった。

 

このプレゼントを76歳以降の心の糧に、私には、「新しい生活様式」として、進めていくつもりである。

2021年

3月

04日

風向きが変わった

一週間前に「笑顔の底力」を投稿した。

応募した幻冬舎の「読むカフェ」から掲載されたという連絡が入った。

「最新のおすすめ作品」のトップに紹介されていた。

 

新型コロナウイルスに始まり、私の75歳は笑顔になる機会が少なかった。

しかし、どうやら、今日4日をもって風向きが変わった。

76歳を2日後にした私は、近所のお庭に杏の花が満開に、白い辛夷の花も空に向かって真っすぐに咲き競っている。

自然の正直な営みに私は、誕生日を前に風向きが変わったことが、素直に嬉しかった。 

2021年

3月

02日

ラストスパートが始まる

弥生3月が始まった昨日、昨年の9月の脳神経外科の手術から半年を迎え、MRI、採血等の検査結果、ドクターから問題なしとの診断をうけ、私は、

ほっと、胸をなでおろした。

 

というのも、75歳は、新型コロナウイルスで、また、個人的にも28年ぶりの12時間にわたる長時間の手術に耐えたが、一口で言えば、母校で、学び直しをすることを楽しみに、スタートしただけに、悔いが残る。

 

75歳という歳を早く終わらせたいとの想いと、コロナ禍によって、母校に帰り、未来を担う後輩の子ども達のために、学校運営協議会委員として、

会議に参加するのが、唯一の生甲斐になっていたが、叶わなかった。

 

思いがけない入院生活後も、「御身大切」に終始することになった。

 

61年ぶりの帰郷というプレゼントを下さった校長先生も、今年の3月で

定年を迎え、75歳が恨めしい歳になったとさえ嘆き、後ろ向きの考えが支配し始めた。

 

これでは、75歳が敗者の一年で終わってしまう。

そこで、最後のラストステージとして、母校での凡そ3年間の思い出を形に残そうと決心して「笑顔の底力」として、「笑顔」に再挑戦した。

 

文字化することで、ふるさとや母校を永遠に残すことができると思いついた私は、昨日でパソコン入力も済んだ。

残すところ、75歳が3日で終わりとなる。

 

さて、まだやり残したことがいくつかあるので、ラストスパートに拍車をかけて、すっきりとした76歳を迎えたい。

それには、今少し、「頑張らないで、頑張る」つもりでいる。