2022年

9月

30日

金木犀が開花

昨日の検査結果に、散歩の足取りも軽く、何処からともなく、大好きな金木犀の甘い香りがマスク越しに届く。

 

金木犀を始め、私は三大香木が好きで、香りに誘われて、何処までも、香りの漂う先が見つかるまで、歩くことがある。

 

今回も、一番早く漂う自宅前の公園に、金木犀が数本あり、小さな可愛い

オレンジの花が開花している。

 

思わず、金木犀の香りを全身に浴びるかのように、暫く佇んでいると、自然の純粋さに、自分の気持ちが安らぐのである。

 

長く、落ち着かない日々から解放されなかった長月も今日でお終い。

 

夕刊は富士山がほんのり雪化粧という記事に、確かに季節は進んでいる。

世界中が何となく不安定で、難しく、危うさが抜けきらないまま、2022年も3か月を残すに至った。

 

2022年

9月

29日

MRIの音

2020年9月、3センチほどに育った左耳下の「髄膜種」の切除の手術をして、丁度、2年目の経過検査にMRIのお世話に成る。

 

1992年、チョコレート嚢腫破裂で、私は初めて、MRI検査を受けた。

大きな工事現場のような音に、最初は驚いた。

 

現在は耳栓をするが、これまでにMRI検査を何回経験しただろうか。

 

毎回のように、機械の進歩やメーカーによるものだと思うが、音の違いを感じる。

 

手順もわかっている程の回数に、私は、MRIの音に興味を持ち始めた。

 

この音は、何処を撮影するための音なんだろうかと、耳栓から聞こえる

音に楽しさを覚えるようになった。

 

検査結果、お陰様で変化なく、無事に術後2年目はクリアできた。

 

急に空腹感を覚え、スーパーで「イサキのお造り」と「京都産のメジナ」

さらに、「きびなごのくぎ煮」を見付けたので、昼食も夕食も、独りでの

お祝い膳を味わった。

2022年

9月

28日

一枚の葉書

最近、ポストに、郵便物が入っている割合が少なったように思う。

 

時間帯が、夕刊の配達時間と重なり、ともすれば、取り損なってしまう程

特に封書ならば存在感があるが、もしかして、葉書が投函されているかもしれないと、気を付けている。

 

実は、この一枚の葉書の消印に、9月10日になっていたのだが、どうしても、私には、ブログに書くまでに心が落ち着くまで待つことにした。

 

葉書の文面の令和四年九月吉日の9月最後の28日にと、病院で、点滴がポトポトと落ちていく40分間、その一枚の葉書について、当時を振り返っていた。

 

ポストの前で、立ち止まってしまう程、その一枚の葉書に何とも言えない寂寥感を覚えた。

 

医療ボランティアをしている私に、日本経済新聞の夕刊に、「患者の目」として4回の連載を取り上げて下さった編集局の編集委員の方が、7月末で、定年退職をなさった挨拶状でした。

 

日本経済新聞は、私には愛読紙である、まさか原稿の依頼を頂くとは、信じられないでいたが、編集委員の熱意と指導によって、無事に至った恩人でした。

 

 もう、本誌にお名前を拝見する機会はなくなるのでしょうか。

 

今日は、令和4年9月28日、大安の日、心を決めてブログに紹介させていただきました。

ありがとうございました。

2022年

9月

27日

麦ごはんが好き

昨日の日本経済新聞の朝刊に、「コメから小麦 転作を支援」の見出しに

故郷の麦踏みが頭を過った。

 

どうやら、ウクライナ侵攻により、小麦の価格が高騰したことにより、国産の重要性が増しているとの内容である。

 

麦と一口にいっても、「大麦」と「小麦」がある。

私が好きな「麦ごはん」とはどっちなんだろうと、疑問に思った。

 

検索してみると、「穂」のひげの長さの違いが明白である。

勿論、含まれている成分の違いから、それぞれに使用目的が異なっているようだ。

 

ごはんには、「大麦」、パンは「小麦」で、今人気のある「もち麦」は、

「大麦」の一種だそうだ。

 

そうすれば、私はふるさとで、麦踏み休みの時、自宅の前の畑で、手を後ろに組んで、伸び始めた若緑の葉を踏みつけていた農家の人達の光景を思い出す。

 

たしか、学校は2日間ほどの麦踏み休暇で、私は自宅から、眺めていた。

 

今でも、どちらかといえば、白米より、麦ごはんの感触が懐かしく、つい

麦ごはんは欠かさないようにしている。

2022年

9月

26日

信じられな~い

企業名は伏せるが、提出書類に私の名前を記入しなければならない立場に

私名義の苗字が、「浅野」になっているため、送付先にて「淺野」に訂正してほしいと、申し出たところ、まだ、こんな企業があるとは、驚いた。

 

相手の企業の担当者に、きちんとした苗字にしておかないと、まずいのではないかと確認した処、返ってきた返事は「申し訳ございませんが、私の苗字は見当たらないので、そのままで、お願いしたい」

 

このやり取りは10分ほど、担当者に苗字についての読み方を始め、無ければ、今のパソコンで作成できるのではと、話し合っても、頑として、その

活字はないとの繰り返しであった。

 

結局、相手の書類の「浅野」で、たしかに認められるのであれば、先方に責任を取ることまで、確認して、兎に角、書類を返送した。

 

かつて、印鑑を「浅野」で、捺印していたら、ある企業から戸籍上の苗字

である「淺野」の印鑑でなければ、認められないと、注意された経験から

其の後、私は、きちんと、戸籍上に従うことにした。

 

ところで、今日は「ワープロの日」だそうだ。

1978年(昭和53年)世界初の日本語のワープロが発売された日だと知り、

たしか、ワープロを使っている時に、常用漢字以外は「ワープロの活字辞典」に、活字の番号が掲載されており、その番号を打ち込むと、私の苗字「淺野」の「淺」数字で表記されていた。

 

其の後、パソコン主流の時代に、こんな企業もまだあるのかと、まったく

「信じられな~い」。

2022年

9月

25日

台風一過の青空

台風一過、ふるさとの「あさくちブルー」に劣らぬ日曜日、私はどうしてもベッドから起き上がれないという残念な日曜日を迎えた。

 

今日は何としても、日頃の処理の残しの整理をしたいという気力をもっていたのだが、ベッドから離れる挑戦をするも無理だとわかった。

 

それならば、明日のために期待して、ベッドを共に休養と決め込んだ。

 

しかし、休養にはならず、悔しさのみが頭を駆け巡っている。

 

何時から、何時から、こんなに、情けない日常を過ごす人間になってしまったかと思うと、涙が頬を伝わる。

 

秋晴れの日、背筋を伸ばして散歩に励みたいと思うのに、身体の各部分が思うように動かないのである。

 

口惜しいが、ベッドで我が天井を見上げているより致し方ない。

 

主治医から指摘されているメンタルtきな原因を、真剣に受け止めなければならないという事である。

 

天井を見ながら、嘗ての虚弱児に戻ったような辛いに戻った。

折角の我がふるさとのような「あさくち ブルー」が差し込む日曜日を終日、無駄にしてしまったという気持ちに陥ってしまった。

 

明日は、この休養の」口惜しさが好転するように頑張ると誓った

2022年

9月

24日

「自ら」が意味するもの

ハッと気が付いたのである。

昨日の「デジタル教育書で自ら学ぶ」という表現について「自ら」という表現に、ある種の都合の良い無責任さを感じたのである。

 

「自ら」とは、自分自身に意欲、気づきによるもので、自分を知り尽くして上での弱い部分を心得て努力する「克己心」に繋がる様に想う。

 

かなり、自分に対して厳しい性分の私が「自ら」という難しさを感じ、苦痛に近い存在を感じているからである。

 

メンタル的に余程の強さがなければ、「自ら」という表現に、」「自己人の克服」を意味しているように思を映えたくなる。

 

「耳辺り」「聴きざわり」の良い言葉での、教育現場に私は不安を案じているのは、果たして、私だけだろうか。

2022年

9月

23日

季節は純粋で従順

数日前から、散歩コースの公園や学校の植え込みの彼岸花が、茎は真っ直ぐ伸ばしているものの、まだ、開化までには時間が掛かるかなと、自分なりに予測をしていた。

 

ところが、今年は、両親の墓参をやめて、散歩に出た途端、公園や学校の植え込みにある彼岸花がまるで、今日が私の主役ですと言わんばかりに開化しているではないですか。

 

私は、今日の新聞に、「デジタル教育で自ら学ぶ」という日本経済新聞の24年度から小中英語で導入するといった記事に、歳のせいと常に言い訳をしている自分が情けなるが、もっと、子どもたちの信じられない「底力」

を信じるという信頼の元、伸び伸びと二度と帰らない学校生活について、

考えrrないかと私は、疑問に思う。

 

もっと、もっと、子どもは自然に自ら気づき、自らを築いていく力を持っているように思えて仕方がない。

 

自然の道理を知り尽くした季節の花のように、子どもたちは知っているのではないだろうか。

 

残念ながら、、それを発言できないどんどん既成かしている社会に、私はのんびりと自由に過ごした子ども時代を幸せに思っている。

2022年

9月

22日

リクエストの図書が届く

待ち遠しく思っていたリクエストの図書が届いた。

 

入倉隆著の「手術をする外科医はなぜ白衣を着ないのか」というタイトルからも、私は心から楽しみにしていた。

 

今月29日には、脳外科の術後、丁度、2年目のMRI等々の経過診断の日に当たり、出来れば、その日までに、入手したいと思っていた。

 

コロナ禍後、ウイルス感染の測定器に成ったパルスオキシメーターという機器についても、新しい知識に心が弾みました。

 

そして、来る29日までに読破しようと、未知の世界に足を踏み入れることばかりで、頭の中がぐるぐると回っています。

 

今度、母校の小学校の理科の先生にも、お目にかかって、この本の幾つかに就て説明を期待しているといった、久しぶりに、ワクワクしている。

 

例えば、「スイカに黒いシマシマがあるのはなぜ」「体色を変化するタコは色が変わらない」「なぜ、昆虫の血は赤くないか」等々。

 

そうすると、不思議に食欲も元気を取り戻し、私は、お刺身のコーナーで島根産の「ほうぼう」の刺身を見付けた。

 

兎に角、迷うことなく購入したのである。

瀬戸内の刺身でもないが、私が母校の運営委員会委員を務めている際に、

色々と指導してくださった方で、島根にご縁があると聞いていた。

 

東京に住んで、60年を経た私には、関東風の醤油にワサビを付けたを

親しんで居た。

 

何だか、とても、心豊かな夕食となった。

2022年

9月

21日

地域包括支援センターカフェ

二か月に一度の地元の地域包括支援センターのカフェのメニューを楽しみにしている。

 

今回は、一か月ほど前の怪我の回復のために、早速参加を申し込んた日が

今日であり、「からだとの痛みとの付き合い方」というテーマに、少しでも、活発な日常生活に戻りたかった私は、講師の話の中からヒント探しをしていた。

 

最後に、講師が沖縄で知ったという体操を公開した時、何ら、無理をせずに自然の中での赴くままの体操に、納得がいった。

 

必死に覚えて帰ったつもりであるが、残念ながら中途半端である。

しかし、続けないよりはと想い、記憶の中で、毎朝、実行している。

 

改めて、今回の私のプロジェクトにも、地域包括支援センターの力が、必要とされているか認識を新たにしたことと、心強いパートナーに、私は身が引きしまる想いでいる。

2022年

9月

20日

台風14号が秋を連れて来た

定刻にベランダのカーテンを開けると滴り落ちるほどの結露に、台風14号が一気に、関東地方に「秋」を連れ連れてきた感がする。

厚手のタオル2枚を使っても、拭え切れない程の結露に、私は、今年の冬を案じてしまった。

 

へやの湿度計は変わらず、一体どうなってるのと頭をかしげる。

 

10時過ぎに、コピーの一括を依頼すると、今日は、湿気が多いんですかね

印刷用紙が何となく調子が悪くてねと店主の言葉に、私はオーバーにいえば、バスタオル二枚でも結露が拭えなかったと話した。

 

やはり、そうでしたか、紙はデリケートですからとの店主の返答に、湿度計だの乾燥防止だの、健康対策というか、乾燥に、弱い喉を案じて季節の変わり目を実感した。

 

長い私の経験によると、、睡眠時は布のマスクの方が乾燥しないように20年来、乾燥時期になると、終夜マスクを利用している体験からによるものであるが、コロナもあるゆえに、布のマスクに、不織布のマスクといったダブる作戦で試みてみようと、想っている。

 

煩わしい世の中に気たなあと、想う次第である。

もう少しゆったりとした社会に戻れないのだろうか。

情報の渦に飲み込まれないで、基本的に必要なことみを逡巡していく社会を私は心身ともに求めている。

2022年

9月

19日

居場所造り

今年は、今日が「敬老の日」である。

 

今、私が進めているプロジェクトを代弁するかのような日本経済新聞のコラム欄「春秋」に掲載されている。

 

詩人の鈴木史郎康氏が、「放りだされている『老い』」という」エッセーの中で、さまざまな高齢者に自らの人生を語ってもらった体験を振り返ったものである。

 

「人間というのは、最後には『ことばを語る』というところに行き着く存在なのか」と感じたという。

 

長寿社会となった日本であるが、高齢者一人一人に居場所があるかという

疑問を持ち始めていた。

 

それは自分の人との繋がりをシャットダウンされたという生きにくさが、私の中で、ふつふつと「おかしい」とい疑問を持ち始めたのである。

 

そして、私は、出来れば、東京を離れたいと思うほどに、生きにくさを感じていたが、60年の生きた証のためにもと、自分に精神的ストッパーをかけるために、自分の生きてきた地域の方に救いを求めたと想っている。

 

恐らく、私のように、口に出さないで、耐えている方たちに、「居場所」が必要だと想った。

 

詩人でもあり、映像作家でもあった、鈴木志郎康氏は2020年9月8日に旅立たれたと知る。

 

「書かれた言葉が読まれないのはつらい/言葉に、求めるに応じる力がないからか/言葉に、求めて行く心がないからか」。

 

今、私は改めて、コロナ禍後の日本における「言葉の力」の必要性を感じている。

 

何時か、自分なりに「言葉の力」について、書き著したいと想っている。

2022年

9月

18日

思考回路がダウン

とうとう、私の思考回路が限界に達しました。

 

いつも通りセットした目覚ましのお知らせ音にも気づかず、はっと気が付いたのは、正午過ぎでいた。

 

嗚呼何たる無様と自分に呆れながらも、これほど、主治医からアドバイスを受けている現状に、自分でも、反省と、驚きを隠せませんでした。

 

ああ、やはり、私の身を案じてる主治医のアドバイスに改めて、真剣に向き合わなけばと、ベットから起き上がれない程の自分の体力の限界を感じ只管、ベッドに横たわっているしかない。

 

しかし、横たわっているにしても、頭は休んでいないのである。

 

あれもこれもと、ベッドにに横たわりながらも、休むことなく、私の意識は休んでいないである。

 

何とか、休養が必要と云い聞かせながら、唯、休養にはならないのある。

どしてこんな状態が続いているのか、悔しくてしょうがない。

 

全てを投げだして、主治医からアドバイスを頂いいる限界に達しているのではないだろうかと、真剣に考えると時になっているのかも。

2022年

9月

17日

モノレールを利用したあの頃

今日は、1964年、日本初の旅客用モノレールが、浜松町と、羽田空港間で開幕した日と知った。

 

かつて、現役で美術の仕事をしている時、父親が神戸で仕事をしていた関係もあり、関西の顧客が多く、月に一度のペースで、羽田空港の早朝初の

第一便で、同日の最終便を利用するといった生活をしていた。

 

それ以降、私は医療ボランティアという関わりに変わり、美術の世界から去り、病気の方の「話し相手」という立場で、今日に至っている。

 

ある方の上京に羽田空港を利用すると伺い、お迎えに出かけたが、余りにも民間までの多くの航空業界の進展により、まあ、目的地までたどり着くことの長いこと、まるで、お上りさんです。

 

きょろきょろ、目的地にはたどり着いたものの、不安は無ぐえない。

しかも、手荷物の有無によって、異なるのである。

仕方なく、相手に確認して、私は、精神的に落ち着いたものの、どうやら

私は、既に世の中のリズムに取り残されたのだという悲哀を感じた。

 

一方では、久しぶりにお迎えする方の変わらぬ笑顔に、ホットした。

 

久し振りにお目にかかり、浜松町までのモノレールないでのおしゃべりは

マスクもなく、とても楽く尽きなかった。

2022年

9月

16日

高齢者数と地域差

昨日の日本経済新聞の夕刊に、WHO事務局長が「コロナ禍、終わり視野に」といったコメントを掲載していた。

そうありたいと願っている。

 

今朝の同紙の朝刊に、19日の「敬老の日」を前に、都道府県別の10万人当たり100歳以上の高齢者数に、ほとんどが、大阪府以降の西地方に「100歳以上の小売り者数」に、冬季の気温がえいこうしているのかなと想った。

 

東日本大震災までは、自宅に住んでいたのを機に、集合住宅に転居した。

今、私はこの判断を後悔している。

 

建設会社のアドバイスで、永年住み慣れた自宅の修繕費に、嘗て、建築中から気になっていた集合住宅に心が動いた。

 

しかし、いま、私の選択は正しかったのだろうかと、疑問を持っている。

 

例え、同額の修繕費が掛かっても、50年以上住み慣れた自宅への想いは、

何故か、夢を通して蘇ったくるのである。

 

かつて、大学の講義で、高齢者の住まいの転居については気を付けるよう

に、転居が精神的負担になるかを、講義してした私である。

 

兎に角、断捨離済みの私には、スペース的には何ら問題ではないのだが、

「投資用マンション」についての知識がなかった。

 

別に、長寿を望んでいる私ではないので、寿命についてはお任せにしているものの、投資用マンションに私は抵抗感がストレスに変わって居る。

 

私は、大気の安定している我がふるさとの有料マンションの資料を取り寄せるまでに至っている。

2022年

9月

15日

地球の回転

未だに、今日は敬老の日という記憶が残存している。

 

 

もう一つ残存の根拠に自信がないのだが、「地球の回転のスピードが速くなっている」いった現象に、まったく、些末な発想が頭をよぎった。

 

先月の怪我の影響で、散歩不足は明白な理由だが、それ以外に、身体の軸がぶれ易くなってきたように思う。

 

私としては、真っ直ぐ歩いているつもりだが、身体が揺れているような時が一瞬生じる。

 

時刻に関しても、日暮れの時刻に対しても、まだ、身体が対応してない。

もしかしたら、地球の回転も起因しているのかと思いたい。

 

唯、「地球の回転がスピードアップしている」という事は、人類社会にも

どのような影響が生じるのだろうか。

 

今、情報社会ではスピードアップが、世界の主流になっているが、加齢のせいで、私は逃げ出したい想いが強い。

 

私の体のふらつき、バランスは、いわゆる「フレイル」の一言で、解決する問題である。

2022年

9月

14日

耳のパンが変わる

日本経済新聞の朝刊に、帝国ホテルが食品ロス削減の証言のため、「パンの耳」が白くこのままサンドイッチに利用できる独自の食パンを開発したそうだ。

 

私としては食パンの耳を適度に焼き上げ、大好きなピーナッでに慣れしたんで来た人間には、一抹の寂しさを覚えるが、食品ロス削減のために致し方ないことであろうか。

 

私は、ソフトな食パンより、一寸歯ごたえのあるいわゆる「耳」の部分が香ばしく好きであっった。

 

しかし、天下の名門ホテルも、時代の流れというか、私にするとなぜ、コロナ禍後、あらゆる当たり前で味わい楽しんだ往時が失われる。

 

もしかしたら、コロナ禍は、想像以上に全ての変革を求めるために、人類に呼び掛けているのだろうか想った。

 

たかが、「パンの耳」にしても、やり過ごせない意味があるのではないだろうかと、ナーバスに、現実に逃げないで向き合うことなのであろうか。

2022年

9月

13日

笑顔の一つが消えた

9月9日の夕刊に、エリザベス英女王の死去が大きく報道されていた。

 

私には、いつも笑顔の女王しかなく、とても、悲しく、「世界の笑顔の」の一つが消えたという、何とも、言えない気持ちになってしまった。

 

暫くは、心が安寧になるまで、触れることを避けている自分がいる。

 

翌日10日の日本経済新聞に、「宮殿に虹、惜しむ人波」「英国人のとしての誇り」と記載されていた。

 

特に、女王の訃報が伝わった頃には宮殿に虹の橋が架かったという。

 

きっと、お気に入りのドレスを召して、虹の橋を毅然として、天国に旅立たれたのだと、やっと、私の気持ちが安らいだ。

 

今、世界中が安定しない国情に、96歳というご高齢に対して、私としては

これ以上の痛みを感じないで、旅立たれたことは何よりだと想っている。

2022年

9月

12日

引き継がれた喜び

母校のブログに、今日、12日は、5年生によるもち米作りの体験学習をしている。

 

6月の籾まき、7月の田植えと、地域の米つくりの名人の指導の下、毎回、新しい発見に、マスク越しからも表情が伝わってくる。

 

母校にコミュニティスクールを導入し、桃の袋掛けに始まり、私も、当時はその委員の一人で、米作りの後、雑草刈り、害虫駆除などの提案をしたものとして、季節に依っての自然の相違はあるものの、想いは引き継がれていた。

 

毎回、ふるさとの伝統や良さを伝えるために、スタート時の委員は試行錯誤を続けながらも、続けてきた。

 

残念乍ら、私は新型コロナにより、委員として、母校に帰れないために、

退会届を提出するも、決してコミュニティスクールの存在価値の重要性を遥か、東京から、見守り続けてきた。

 

何と、あの懐かしい田んぼでの環境学習のブログに、私は、叶うならば、

幾分緩和されつつあるにコロナの感染時に、「稲刈り」には、帰郷したいと願った。

 

何時、「稲刈り」になるのだろうかと、愉しみと、待ち遠しく思った。

 

改めて、母校の委員を短期間であったが努めたことに誇りを覚えた。

2022年

9月

11日

多様性の地域社会

足の回復のために、又、気分転換に極力散歩を心がけている。

 

天気のせいにしたりすることなく、メンタルを強くしなければと、自分に

云い聞かせて、足さばきが元の通りになる様に、特に、階段を降りる時がまだ、手すりのお世話に成っている状態が続いている。

 

そういえば、2001年、ニュヨークの貿易センタービルへの同一多発テロは未だに、身震いを覚える。

 

特に、あの現場に私が居合わせたら、避難するために、非常階段を使って降りていくほどの、回復はしていない。

 

わが身に置き換えると、恐らく、ショックで、声も出ないで唯々、立ち尽くすであろうと想う。

 

ニューヨークに留学していた友人から、聞いた話であるが、恐怖に対して声を上げるタイプと、声を失ってしまうタイプに分かれるそうだ。

 

友人は、エレベーター内で、怖い想いをしたときに、非常ベルを持つようにといわれたという。

 

エレベーターには、今日は「警察相談の日」で、警察庁が、1999年(平成11年)に全国統一の「#9110」の制定をした日であると、知った。

 

散歩の途中で、地域の告知板に2024年には、10人に一人が、外国人になるという。

 

言葉や文化の問題を乗り越えて、笑顔で繋がる多様性の地域社会への為には、お互いが認め合い、工夫を重ねていく時代が、既に始まっている。

2022年

9月

10日

故郷の妖怪

今日は、いつもの通り、資源回収の日である。

 

最近ゆっくりというか、じっくり、新聞を読む時間がなくて、一日遅れの新聞を大体、ラジオ深夜便の終わりに「今日の誕生日の花」が紹介されるのと、同時に、早速その誕生日の花が知りたくて、寝ぼけ眼の走り書きを

便りに、検索するのがまた一つの資源回収日のルーティンになっている。

 

昨日の日本経済新聞のプロムナードに、美術史家の秋田麻早子氏が、我がふるさとの浅口市の円珠院に伝わるもので、人魚のミイラで、思いのほか小さく、少しムンクっぽく、そして岡山にはまだあと2体の人魚のミイラがあるそうだ。

 

人魚のミイラが倉敷市立自然史博物館で、展示されているという。

この展示には、スネコスリやサガリなど、岡山県に語り継がれる妖怪たちが紹介されていたが、倉敷市の妖怪はいなかった。

 

私には「ボウチ」という存在というか、何故、ボウチというのかすら理解できないで、読み続けた。

 

後半に、柳田國男が、「妖怪談義」で岡山県のボウチについて言及していることが分かったと記載している。

 

見知らむ人を意味し、法師からの分化とも考えられるようだと続いて記されている。

 

さらに、日暮れ以降に小さい子供に起こる可能性のある危険のすべてをひっくるめ、ボウチという名で体現されていたのだろうと結んでいる。

 

そういわれると、私の記憶にも、「早く帰らないと、さらわれるよ」と、

遊びに夢中になっていると、誰彼となく、促されて家路に急いだ。

 

しかし、最後まで、地元で過ごしていた時代に「ボウチ」という言葉は思いだせなかった。

2022年

9月

09日

一歩前進

新型コロナの終息は未知数のままで、なかなか想う様に、計画しているプロジェクトが頓挫しているようで、残念で仕方がない。

 

昨日の午後、いよいよ、社会福祉協議会のコディネーターと、打ち合わせで、やっと、最初の第一歩を踏み出すための準備会を、わが地区の民生委員、地域包括支援センターに、理解をして頂く「地域つながり会議」をこの10月に開催するところまで、漕ぎ着けることができました。

 

すっかり、コロナ禍で、コミュニケーションが遠ざかり、見えない高齢者の「孤独や孤立」について、実際に苦労や迷いについての率直な意見を伺うためです。

 

9月2日の日本経済新聞に、浅口市と交流都市の江戸川区では、「引きこもり実態把握」の調査を実施している。

 

調査は「日常生活での不安」や「ひきこもりになったきっかけ」などの、

多義にわたって調査したもので、高齢者に限っていないが、ヒントや参考になりそうだと想っている。

 

江戸川区とは我がふるさとの浅口市に、8月、小学生を招いて、サマーキャンプ等々や、瀬戸内の海岸の海砂は真っ白で、恐らく驚いたのではないかと、私なりに推察している。

 

「天文のまち浅口」に始まり、海在り、山ありの浅口市を満喫して、笑顔になって、都会では味わえない思い出になったことではないでしょうか。

 

ところで、今年も江戸川まつりは中止の方向であるようだ。

 

かつて、江戸川区では、鶴岡出身の友人から聞いた話だが、戦時中疎開先に子どもたちをいち早く引き取った縁があり、江戸川まつりには「どんがら汁」の提供もあり、そのおいしさは今も、舌が覚えている。

 

来年こそ、浅口市の「寄島牡蠣」や「鱧」など、海の幸と出会えることをもちろん「どんがら汁」も味わえる日が待ち遠しく思っている。

2022年

9月

08日

品格語辞典と感性辞典

今朝の新聞の朝刊に、大修館書店の「品格語辞典」の刊行が、掲載されて居たので、早速隣接する図書館にリクエストを依頼した。

 

凡そ、3年前になるが、そのころ、母校の故郷の小学校の学校運営協議会の委員の一人として、委員会開催時には何よりも優先して、帰郷するのが楽しみであった。

 

既に実家のない私には、母校が実家であり、「いつも只今」と言える喜びがとても嬉しかった。

 

今は定年になって、セカンドステージで中学生に尽力をしていらっしゃる

校長先生と、今後の目標として、ブランデーションの提案をした際、何故か、「地域」という固い表現に私はクレームをつけたのである。

 

何故、「ふるさと」という言葉は、教育の現場からは消滅したのでしょうかとの問いかけに、校長先生は「僕の感性辞典」には「ふるさと」は生き続けているとの返事であった。

 

「感性辞典」なるものがあるとは知らず、私はネットで検索するも、些かいかがわしい情報のみであった。

 

校長先生は自分の心にある大切な大和言葉である「感性」をウイットに富んで私を慌てさせたのだと、今となっては懐かしい思い出である。

2022年

9月

07日

40分の安らぎ

現在、私は自力で体力の回復が出来ない程に、体調を痛めてしまった。

 

そのために、月に2回点滴の力を借りているといった状態が、彼是3か月以上続いている。

 

ドクターはとにかく、体力が消耗しているからと、いつも案じ、優しく、「大丈夫だよ」と私の気持ちを和らげて下さる。

昨日の整形外科の回復もあり、その一言で、どれほど、心強く、元気が出てくる。

 

さらに、ナースも私の動作や表情を、観察しながら、点滴の処置を終えると、部屋の照明を落とし、「ゆっくり、40分間休んでね」と、処置室を去っていく時、声をかけてそっと立ち去る。

 

丁度、昼食を済ませた時刻なので、しかも、医療者がすぐそばで、手を貸してくれるという私には、わが自宅より安らぎの場というか、安心して、

無防備になれる時間である。

 

さすが、プロってすごいなあと感心するのは、ピッタリ、点滴が40分で、

完了するのである。

 

僅か、40分間だが、本当に、今の私の心身の回復には何よりの力強い存在である。

2022年

9月

06日

主治医との信頼

今日は、縁起を担ぐほど、案じていた。

 

主治医のドクターからレントゲンの写真を提示され、何と、怪我をしていた箇所に、新しいの骨が見えているという診断結果である。

 

長い主治医の中で、私の精神というか性質を見越しての治療を施してくれたのである。

 

見せて頂いた箇所には、新しい骨が生えているのである。

私は、我がふるさとの小魚や煮干しを、欠かすことなく食事の際にとりこんできた。

 

主治医の」先生は、ギブスを装着より、自分の気力で回復できると信じていださり、経過を見守っていた下さったのである。

 

振り合えって見れば30代からの長い付き合いであり、私の気性も心得ての

診察結果、今回の負傷は、之にておいて一件落着落着にとなった。

 

やはり、「海老で鯛」の効果はあったのかと思う反面、主治医が私に対して、「君は気力で治す人だから」と、言われた一言に、「病は気力」という人表現に主治医の先生に対する私の、本当の患者としての信頼を持っていていて下さるという、私を一人の患者としてしてして、信頼して下さることに、私は自分の本来の持ち合わた気の強さに、導いてくださったドクターに感謝している。

2022年

9月

05日

海老で鯛を釣りたい

四谷にある用事を思いだした私は、身繕いも早々に約束の時間に間に合うようにと案じながら自宅を後にした。

 

お陰様で、相手をお待たせしないで、要件も済ませた。

 

気が付くと、ちょうど、昼食の時間でもあり、別に縁起を担ぐ訳ではないのだが、ある飲食店の前で足が止まった。

 

明日、怪我をして丁度、一か月で、これまで毎週レントゲンと問診が、実は明日の診察は、2週間という期間があり、少しずつだけれども、回復の

途上にある様に感じていた。

 

しかし、目視でわかる症状はなく、気にはなっていたのである。

 

昼食を済ませて帰るのが楽だと思い、吸い込まれるかの如くテーブルに腰を下ろしていた。

 

すかさず、私は「エビフライ定食」を頼んだ。

 

間もなく、目を見張るような大きなエビフライ定食が運ばれたのに、目を見張った。

 

と同時に、自宅で孤食には慣れているものの、どこかで隙間風を感じる。

残念乍ら、ふるさとの海老の味はなく、大味であった。

 

でも、明日の結果が大海老だろうと、ふるさとの海老だろうが、私にとっては「海老で鯛を釣りたい」心境には変わりがない。

 

お陰様で、些か、毎日の食事のエネルギーオーバーか、夕食はパスした。

2022年

9月

04日

横断歩道で

今日は、思い切って、休養というか、一日中をさぼると決めた。

 

回復途上にある左足のために、ドクターの言葉を思い出し、又、ストレス解消に、散歩に出かける。

 

信号が変わるのを待っている間、若い父親と女児の会話が聞こえてきた。

「今年も、8月のお祭りがなかったよね。金魚すくいも、スイカ割も、焼きトウモロコシを、おじさんたちが作ってくれるのに、コロナっていつ終わるの」と、父親に問いかけている。

 

若い父親は何て応えるのだろうと、思わず、ダンボの耳になっている。

 

マスク越しに「そうだよね、お父さんも楽しみにしていたんだ。残念だよね。来年は、金魚すくいや、スイカ割ができるようにと、想っているよ。

来年を楽しみに頑張ろうね」

 

女児は「わかった。頑張る」

 

何と、微笑ましい親子に、ある意味で、母校の小学校を離れて、東京の大人の世界に生き続けていた私に、何と、素晴らしい休養の時間をプレゼントしてくれたのだろうと、想った。

2022年

9月

03日

自分の時間が欲しい

朝型の私は、この数か月、その貴重なベストの時間が無くなってしまったことが辛く残念で仕方がない。

 

こんなはずじゃなかったのであるが、私の認識不足であった。

引き受けた以上は、人のせいには出来ないと、分かっているのだが、やはり、「こんなはずじゃなかった」と云わせてほしい。

今日の予定もほとんど、実行できない状態である。

 

私は嘗ては、午前中に、ある程度の予定を終え、午後は、のんびりする時間があったが、今は、午前中の予定を消化するために、遮二無二に頑張るのだが、足の怪我もあり、気が弱く成り、身体を庇ってしまう。

 

というか、まあ、仕方ないと自分に云い聞かせているのだが、今年の2月から考えてきたプロジェクトの準備時間を奪われることが、悔しく、そのために想う様に進捗しないことが、苛立たしく思う。

 

しかし、これまでのノルマの一万歩の散歩にも、恐らく怪我を意識するために30%程度で、止めてしまうことも、精神的に影響を及ぼしている。

 

明日は、日曜日、何とか、穏やかな一日になる様に願っている私である。

2022年

9月

02日

「やまなし」を学ぶ

どうも、僅か、17年間しかふるさとで、過ごしていない私だが、何故か、60年過ごしている東京になじめなく、心痛む日が続いている。

 

せめて、ふるさとの情報に触れたく、特に、母校の小学校のブログは何より元気の素である。

 

2018年、帰郷時に、6年生の国語の授業が、宮沢賢治の「やまなし」と知った。

 

恥ずかしながら、私は「やまなし」を知らず、隣の図書館に駆け込み、初めて知った次第である。

 

宮沢賢治特有の表現に、新幹線の中でも何度も読み直して、6年生の教室で

先生の指導に耳を傾けたのである。

 

私は「難しい」と自分の感性と読解力のなさに、お手上げ状態であった。

帰京時の新幹線の中でも、読み直すほど、難解で、忘れられないでいた。

 

処が、今日2日のブログに、「やまなし」の世界がふるさとには残っている動画も含めた内容がアップされていたのである。

 

しかも、懐かしい春は桜並木に染まる「里見川」で、宮沢賢治の「やまなし」の世界が生きている。

 

ブログを繰り返し、何度も見ては、帰郷が実現できない悔しさに唇を噛み締めていた。

2022年

9月

01日

2019年午前9時

2年前の2019年午前9時、私は長年付き合っていた髄膜種が成長して、今が手術をしなければ、身体に影響が出てくるためのぎりぎりの段階という瀬戸際に、この時刻、私が脳外科の手術室に運ばれた時刻である。

 

今回の手術に対し、担当部署の皆様から、私の緊張を解き解すようにと、笑顔で対応して頂きました。

 

その時、間もなく始まる目前に、私は「先生、私は三つの『腫』に該当するもので、これで、2つ解除できますが、もう一つやはり同年に「左血管脂肪膿腫1.4ミリ」と検査結果でわかりました。

 

麻酔にかけれれる前に、私は「体質的に『腫』に縁がある体質ですか」と

問いかけた後は、麻酔医により、記憶が突如と消えている。

 

当初6時間の予定が、12時間近くに及んだことを知り、改めて、これは

大変な現実を知りました。

 

術後HPCといわれる部屋で翌日の午後、病室に戻り、「生きていた」と、

暫くお世話に成る病室で、既にスマホを見ていた。

 

話は前後するのですが、翌朝麻酔科のドクターが、「淺野さん、私が誰だかわかりますか」との問いかけに、私は「昨日お世話に成った麻酔科の先生です」と答えました。

 

素敵な麻酔科の女医先生は「覚えていたので、もう、大丈夫」と、軽く

私の方に合図を送ってくれました。

 

かねてから、希望した、空と、スカイツリーが真直に見える病室に帰った私は、「これで良かった」と、HPCで眠りに就けなかった私には、自宅に帰ったような安心感を覚えたことを今も、しっかり記憶している。

 

もう一つ左血管筋脂肪腫は、今も、経過観察を続けているが、高血圧を除き、まあ一病息災と考えて、今月から恐らく私の人世に置いて長年のボランティアとしての最後の責任が私を待っている。

 

兎に角、私の周囲にはストレスになる材料がそろっているように思うのだが、友人に言わせると、「気が付きやすい、見逃せない、自分を犠牲にしても、相手に気遣う」という3点セットだと、指摘している。

 

正にわが友人の仰せの如く、わが友人は名医である。

そして、術後2年間を過ごせた医療者に感謝の気持ちを記しておきたい。